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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』西播編 > 宝殿〈ほうでん〉さんの大相撲〈おおずもう〉と上野〈うえの〉の青刈〈あおが〉り(波賀町)

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更新日:2013年3月4日

宝殿〈ほうでん〉さんの大相撲〈おおずもう〉と上野〈うえの〉の青刈〈あおが〉り(波賀町)

揖保川の一ばん上流の地方、南北三十二キロメートル、面積百六十平方キロメートルの土地が波賀〈はが〉町です。全村ほとんど山地ですが、その間を揖保川が谷間をぬって流れ、その揖保川にそって国道二十九号線が走り、やがて戸倉峠〈とくらとうげ〉をへて、因幡〈いなば〉の国へ続いています。
大昔、大己貴命〈おおなむちのみこと〉が、出雲〈いずも〉から因幡〈いなば〉をへて、はじめて播磨〈はりま〉の国へ足をふみ入れられました。ところが、すでにそこには前から人が住んでいました。命〈みこと〉は、私が最初だと思ったのに私より先に人がきていたとは、「はからざりき(意外である)」といわれました。それでこの地をはか―はがというようになったと申します。

この波賀町の中心が上野〈うえの〉で、因幡からこえてきたときの最初の要地となるので、ここには昔から店屋も宿屋もあり上野の町〈まち〉と呼ばれました。この地方の鎌倉期から戦国期にかけての豪族〈ごうぞく〉が波賀氏(芳賀氏)で、波賀氏は上野の宝殿〈ほうでん〉(宝伝とも書く)神社をもっともうやまっていました。
上野の宝殿さんは大己貴命をお祀〈まつ〉りしています。五穀豊〈ごこくほう〉じょう、農業や薬の神様で、お祭は霜月〈しもつき〉(十一月)五―六日です。ちょうどみんな秋のとり入れを終り、心もくつろいだころなので、近在のたくさんの人びとがお参りしました。とくにこの宝殿さんの相撲〈すもう〉は有名で、摂津〈せっつ〉、丹波〈たんば〉、但馬〈たじま〉、播磨〈はりま〉はもちろん、因幡〈いなば〉、伯耆〈ほうき〉、備前〈びぜん〉、備中〈びっちゅう〉まで、力自慢腕〈じまんうで〉自慢の人たちが集まり相撲の技〈わざ〉を競〈きそ〉いました。大相撲の前に行なう子どもたちの相撲も、「上野の小相撲」といって、大へんにぎやかでした。けれども、この宝殿さんの神様は、大へん清潔好きな神様で、もし、よその人が手足を洗わずにお参りしたりすると、すぐ雨を降らせたとつたえられています。

雨といえば「上野の青刈〈あおが〉り」が、すぐ人の口の端に上ります。青刈りというのは、どの農家にも飼っている牛のため、冬食べさせる草を、夏のいきおいのよい青い間に刈って乾しておくのです。あらかじめ草刈り禁制〈きんせい〉の山をきめておき、八月に日をきめて一せいに解禁〈かいきん〉します。すると、この日はほとんど村中総出で、朝早くから草刈りに出かけます。しかし、どうしたものか、この草山開きの日にはよく雨が降るので、「上野の青刈り」といえば雨の日をさすようになり、よく雨もよいのときなど、「こりゃ上野の青刈りで雨になりそうじゃ。」などといったものです。

それから、上野から揖保川沿いに十四キロほど上ったところに石亀〈いしがめ〉というところがあり、十戸あまりの家のほとんどが平〈ひら〉という姓になっています。これは戸倉峠をこえて因幡に入った、山の中にある最初の落居〈おちおれ〉というところが、十数戸全部、平家〈へいけ〉という姓であるのとよくにています。
源平の昔、この落居に平経盛〈たいらのつねもり〉という人がかくれていましたが、節季〈せっつき〉(年のくれ)に村の人が餅をついていた、その餅つく音のため、討手〈おって〉に発見されて殺されてしまいました。落居の人はそれを悲しみ、それからは、年の暮れには餅をつかぬことにしました。その習慣は、今もこの落居に残っています。
石亀も落居も、何か平家に関係があるのでしょう。

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