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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』西播編 > 鹿〈しか〉が壺〈つぼ〉(安富町)

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更新日:2012年10月29日

鹿〈しか〉が壺〈つぼ〉(安富町)

宍粟郡安富町〈しそうぐんやすとみちょう〉に鹿〈しか〉が壺〈つぼ〉という瀧壺〈たきつぼ〉の名所があります。谷川の一枚岩につぎつぎと十二の瀧壺があります。何千年とたえることなく、水の力で深くえぐられた岩穴〈いわあな〉は、天然記念物として県下でも有名です。
きれいな水が岩間をほと走り、神秘さがただよう谷川にそって、滝壺を下からひとつひとつ観賞〈かんしょう〉していくと、その中にひとつ鹿の寝ている形の壺があります。また、中には底無〈そこな〉しの壺といって古井戸のように暗く底の見えない深い壺もあります。
鹿が壺には、こんな話がのこっています。

光仁〈こうにん〉天皇の宝亀〈ほうき〉四年(七七三)の昔、安志〈あなし〉の里のけわしい山奥に一頭の大鹿が住んでいました。
体長はおよそ六メートル、するどい二本の角には、七つの草刈がつき、目はランランと輝き、脊中には篠〈ささ〉が生え、足に水かきがありました。年をへること久しく、里人たちは伊佐々王〈いざさおう〉と呼んでいました。伊佐々王は気が荒らく、いつも数千頭の鹿をしたがえ、山を荒らしけだものを殺すだけでなく、里人にも危害を加えるので、この地方の人びとは、伊佐々王と聞けば身をちぢめて恐れおののいていました。
それがとうとう村に乱入してあばれましたので、人びとは、ちりぢりになって逃げまわるありさまとなりました。
このことが天皇に聞え、勅命によって播磨の国の衛士〈えいし〉たちがもれなく集められ、大がかりな伊佐々王退治〈たいじ〉がはじめられました。
この狩〈かり〉は長い間続けられ、勇ましい兵士たちが山を囲み、木を伐り、山を焼いて攻めたてたので、さすがの伊佐々王も傷つき疲れはてて、草深い渓流〈けいりゅう〉に追いつめられました。おおぜいの兵士に囲まれた伊佐々王は、最後の力を振りしぼり、荒れ狂いのたうちまわって谷間の岩床につぎつぎ大きな穴を掘り、ついに兵士の見守る中で、「このあと消ゆることなかれ」と岩盤〈がんばん〉に自分の形を止めて死んでいきました。
この大穴の群れが、鹿が壺だということです。一番奥地にあるものは鹿が横たわった形をしています。また、あちこちへのがれていた人びとが安堵〈あんど〉の思いで家に帰ったので、この谷を安志〈あんじ〉谷といいました。

昔からこの滝の底無しの壺に石をほり込んだら、龍神〈りゅうじん〉の怒りにふれて、村は大嵐になるといい伝えられています。ある人が「そんな馬鹿げた話は迷信〈めいしん〉だ。」といって、唐傘〈からかさ〉に石をくくりつけて滝壺にほり込んだところ、空が急に曇り、とつぜん、雨風をよび大嵐となり、川は氾濫〈はんらん〉して大洪水〈こうずい〉となり村中大災難に見まわれたそうです。そして、ほり込んだ唐傘が、のちに網干の沖の海底からぽっかり浮かび上がったというので、底無しの壺の底は網干の海底に通じているとか、いろいろに伝えられています。
今この神秘な鹿が壺も、夏には多くの観光客でにぎわっています。

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