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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』西播編 > 弓の木と最明寺〈さいみょうじ〉(三日月町)

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更新日:2012年10月29日

弓の木と最明寺〈さいみょうじ〉(三日月町)

源氏が三代で亡び、鎌倉幕府の実権〈じっけん〉が北条氏に移ったころの話です。
後鳥羽上皇は、源氏の滅亡〈めつぼう〉により幕府がくずれ、政治がふたたび朝廷に帰ることを願われましたが、こと志〈こころざし〉とちがい、承久〈じょうきゅう〉三年(一二一二)上皇方の軍勢は破れ、上皇は隠岐〈おき〉の島へ流されることとなりました。
後鳥羽上皇は出家され、武士のきびしい警護〈けいご〉のもとに、わずかの近臣〈きんしん〉を供に隠岐にむかわれました。上皇は、揖保郡から相坂を越え三日月に入られました。相坂という名を聞かれて、「逢坂〈あふさか〉というのは東国でなく、このようなところにもあるのか。」といわれて、

立ち帰り越え行く関〈せき〉とおもはばや
みやこに聞きしあふ坂の山

と歌われ、ふたたびこの相坂を越え、都へ帰られる日のくることをおのぞみになりました。
そこから三日月に入ると左手の川向うに(今の姫新線を越して向こうの山すそに)大きな椋〈むく〉の木があったので、そこに弓をかけてしばらく休まれました。その弓をかけられたと伝える椋の木は「弓の木」と呼ばれ、今も大きな太い幹に一ぱいの葉を繁らせ、天然記念物となっております。
また、三日月中学校の裏にある「矢の谷」は、上皇がお休みになったとき射〈い〉られた矢が、その谷の方向に飛んだので、「矢の谷」の名がついたと伝えられています。
上皇はその後十九年、毎日都に帰られる日を待ちながら、隠岐の島で亡くなられました。

それから、三、四十年たったやはり鎌倉時代のことです。
時の執権北条時頼〈しっけんほうじょうときより〉は、執権職〈しっけんしょく〉を一族にゆずり、隠居〈いんきょ〉して仏門に入り最明寺入道とよばれました。そうして、地方の人情や風俗、人民のようすを調べるため、旅僧に姿をかえて諸国を行脚〈あんぎゃ〉して廻ったと伝えられています。
時頼は国々を廻る途〈みち〉すがら、そのころ下志文〈しもしぶみ〉といっていた春哉〈はるかな〉の里まできました。今の十二月です。ここで大雪にとじこめられ、そのうえ旅の疲れからか病気になり、とうとう三か月ここにとどまりました。
時頼はそのとき、そこで自分の姿を木像に刻みました。
そうして春哉〈はるかな〉と題して、

深雪〈みゆき〉にもあさる雉子〈きぎす〉の声聞けば おのが心はいつも春かな

という歌一首を木像とともに残して、旅立って行きました。
それからこの下志文を春哉と呼ぶようになり、時頼と心安かった人たちがここにお堂を建てて最明寺と名づけ、短冊と木像を納めて祭りをつづけました。それが春哉の最明寺です。
また「三か月」の文字もこのことから生まれたといわれています。
時頼の直筆短冊〈じきひつたんざく〉はその後焼けてなくなったということで、今最明寺にあるのは後に作られた版木〈はんぎ〉だけです。
木像は今も残っており、時頼自作の像かどうかわかりませんが、鎌倉時代の末期か室町時代のはじめごろの作品であることはたしかで、鎌倉建長寺〈けんちょうじ〉にある時頼像(時頼の死後に作られた鎌倉時代の代表的な木像)とともに、いずれも国の重要文化財に指定されております。
時頼はさらに佐用都比売〈さよつひめ〉神社に、佐用の朝霧〈あさぎり〉というつぎの歌一首を献〈けん〉じて立ち去ったといいます。

いづくともいづらの道にぞやみぬべき 晴間も見えぬ佐用の朝霧

(三日月町史からとる)

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