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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』西播編 > 米が二度とれた話(赤穂市大津)

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更新日:2013年1月14日

米が二度とれた話(赤穂市大津)

大昔のころ、大津〈おおつ〉は「大津千軒〈せんげん〉」といって、にぎやかにさかえた港町でした。神功皇后〈じんぐうこうごう〉が三韓〈さんかん〉へ出征〈しゅっせい〉される途中、風を避〈さ〉けるためこの港に船をいれて休まれたという話も残っています。
ところが、長い年月のあいだに、雨の降るたびに、裏山から流れてくる山の土砂が、だんだん港を埋めたてて、しまいには、船の出入もできないほどになりました。
船の出入がとまっては、港はさびれる一方です。にぎやかであった港町は、淋しい漁村にかわっていきました。

それでも山の土砂は流れてきて海を埋めていきます。いまは、もう漁船の出入もかなわなくなりました。漁師たちはしかたなく、海の埋まったところを開墾〈かいこん〉して田をつくりました。
長い年月をかけて深い海を埋め立てたため、拓かれた田は土がとても深く、耕すのには骨が折れましたがお米はよくできました。
五月に田植をして植えた稲が、八月にもう穂が出てお米がとれました。九月になると八月に刈った稲株から芽が出てきて、だんだんのびて穂になり、穂が稔〈みの〉って十二月にはまた米がとれました。

はじめにとれた米は、とても美しく粒もそろっており、味も大へんよかったので、これは年貢〈ねんぐ〉として納〈おさ〉めました。二度目にとれた米は、羊米〈ひつじまい〉といって、粒もそろわず味も落ちました。百姓はこれをたべることにしました。そのころの百姓は、とれた米は全部年貢にとられてしまうので、ほとんど麦ばかりたべていました。たとえ羊米でも、米が、たべられるということは大へんありがたいことでした。
米が二度とれても、年貢は一度納めるだけでよかったので、百姓のくらしはだんだよくなってきました。港がさびれるとともに、さびれていた裏山の氏神さんのお祭も年々にぎやかに行なわれるようになりました。

しかし、よいことは長くつづきませんでした。
お米が二度とれて、生活〈くらし〉が楽になってきますと、大ぜいの百姓の中には、働かないでもっと楽がしたいと思うものがでてきました。この心得のわるい百姓は、はじめにとれるよい米を商人に高い値〈ね〉で売り、金をもうけました。年貢には、二度目にとれた悪い羊米をだまって差し出しました。
年貢米を納めるときには、奉行が立ち会いのうえで俵〈たわら〉改めがあります。かってに俵を出して、その俵の米の分量や質のよしあしを調べます。運悪くこの羊米をいれた俵が選〈えら〉び出されたため、すぐに見破られてしまいました。年貢納めのときの不正は、いちばん罪は重く、本人はもちろん、五人組、年寄、庄屋にまでおよぶおきてでした。

氏神さんが、このことを知って、大そう腹を立てられました。そして、人の心のあさはかさをなげかれました。すべては、米が二度とれるということからきた不始末〈ふしまつ〉であると考えられて、「黒土を三度に流してしまう。」と申されて、黒鉄山の土をながし、石をながし、水をながして、田の土を流してしまいました。それから大津には、米は年に一度しかとれなくなったということです。

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