• お問い合わせ
  • 文字サイズ・色合いの変更
  • サイトマップ
  • 携帯サイト

メニュー

ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』西播編 > 鐘田〈かねだ〉(新宮町香島)

ここから本文です。

更新日:2012年11月26日

鐘田〈かねだ〉(新宮町香島)

六百年も前のお話です。
宮内〈みやうち〉村と、香山〈こうやま〉村のさかいにある大寺山のふもとに、城禅寺〈じょうぜんじ〉という赤松一族の先祖をまつるお寺がありました。赤松氏というと、そのころ、播磨〈はりま〉の国一帯をおさめ、大きな勢力を持つ大名でした。そのため、城禅寺は、鐘楼〈しょうろう〉(鐘〈かね〉つき堂)もあるりっぱな寺でした。
赤松氏が、当時の幕府、足利氏との間に嘉吉〈かきつ〉の乱を起こし、全滅してしまった時、城禅寺も、まる焼けになってしまいました。そして、城禅寺の鐘楼が焼け落ちるとき、つり鐘〈がね〉が、なくなりました。

田の水を入れにきていた香山の村人が、その鐘をみつけ、急いで村に知らせました。
「鐘が、ころがりこんだぞ。えんぎのいい知らせかも知れん。」
「わしらの村も、これで豊かになれるぞ。その前ぶれだ。」
「ありがたいこっちゃ。ありがたいこっちゃ。」
と、大よろこびで、鐘を持ち帰り、庄屋さんの家に大切にしまいこみました。
いっぽう、宮内村は、嘉吉の乱で、まる焼けとなりましたが、何年かたって、もとどおりのくらしができるようになったころ、香山村に、城禅寺の鐘が、ころがりこんでいるといううわさを耳にしました。
「城禅寺は、もともと宮内村の土地、あの鐘はわしらのものじゃ。」
「香山にばっかりいいめをされて、だまっておれん、取り返すのじゃ。」
と、若者を先頭に、くわやとんがを持って、香山におしかけました。香山では、せっかくころがりこんだえんぎ物を、とり返されてたまるものかと田に深く穴をほり、うめてしまいました。
宮内村の人たちは、どこをさがしてもない鐘に、しかたなくあきらめてしまいました。香山では、ほっとしたものの、となり村のことゆえ、いつとり返しにくるかも知れません。それで、うめられた鐘は、八十年もの長い間、そのままであったということです。

のちの人が、その鐘を掘り出し、大歳〈おおとし〉神社に鐘つき堂を建て、朝夕つきならしたということです。そのためか、香山の人は早起きとなり、村がはんじょうしたということです。
この鐘は、昭和十九年、戦争のため供出され二度とかえってこなかったのです。いまも、大歳神社には、鐘つき堂だけがのこっています。
また、鐘をうめた田は、「鐘田〈かねだ〉」とよんで、いまもそういっています。
嘉吉の乱で焼けた城禅寺あとは、いまも、大寺山の頂上に広い敷地をのこし、こけむす石垣が、むかしの名残りをとどめています。

お問い合わせ

情報管理部広報係

電話番号:078-331-9962

ファクス番号:078-331-8022