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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』西播編 > 桜山六人塚の哀話(上月町)

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更新日:2012年10月1日

桜山六人塚の哀話(上月町)

百万石の大守、千五百石の国家老というように、江戸時代の租税〈そぜい〉はお米の現物上納〈げんぶつじょうのう〉でありました。米、したがって田は年貢〈ねんぐ〉の大本として百姓にも武士にも大切なもので、各藩とも新田の開発を急ぐとともに、脱税〈だつぜい〉をおそれて個人が開墾〈かいこん〉して内しょにすることを一番きらっておりました。

上月町の豪農〈ごうのう〉井原与右エ門は、少しでも家を豊かにしたいと思い、幕山〈まくやま〉村の奥のけわしい山の上にある桜山を苦労して開墾し、新田を作りました。すぐ年貢〈ねんぐ〉をとり立てられてはと、届け出をせず隠〈かく〉し田として、お米はひそかに家にかくしていました。
それが役人に見つかってしまいました。検見役〈けんみやく〉は与右エ門を呼び出して、
「ただちに新田の年貢を納めよ。」
と命じました。与右エ門にも言い分がありました。
「このたんぼはお上〈かみ〉のものではない。私が汗とあぶらで開いたものだ。新田の年貢は減免〈げんめん〉してくれてもよいではないか。」
そのころの年貢は大へんきびしくて、年貢を納めたら、あとにはもみがらとわらしか残らないというのが普通だったので、与右エ門は、せっかくの努力を全部とり上げられることを残念に思って、なかなか役人のいうことを聞かなかったのでした。

万治〈まんじ〉元年(一六五八)ごろだったといいます。その附近は平福領〈ひらふくりょう〉(佐用町平福)でしたが、領主〈りょうしゅ〉は旗本〈はたもと〉だったので江戸におり、代官〈だいかん〉が年貢のとり立てにあたっていました。代官は庄屋〈しょうや〉と相談して、
「不届〈ふとど〉きである。すぐ与右エ門を断罪〈だんざい〉にせよ。」
と申しわたしました。そのころ農民の隠し田はもっとも重い罪で、露見〈ろけん〉すると田畑は没収〈ぼっしゅう〉のうえ、軽くて追放〈ついほう〉、重ければはりつけというのがきまりだったのです。
与右エ門には妻と六人の子どもがありましたが、罪のおよぶことを心配して妻を離縁〈りえん〉して実家へ帰えらせ、一番下の幼児は乳母〈うば〉がつれて逃げました。(この子は後見つけ出されたが助かりました。)

死刑の日が来ました。与右エ門は代官と庄屋を深く恨〈うら〉みました。刑場〈けいじょう〉へ引かれる途中、庄屋の家の前をとおったとき、庄屋の家をにらみつけ、
「庄屋の屋敷に草をはやしてやる。」
と叫びながら小指をかみきって門の中へ投げつけました。
刑場は村から西へ約三百メートルほど離れた作州〈さくしゅう〉(岡山県)境のしみ谷という林の中です。
父の井原与右エ門(五十九才)をはじめとして、長男三治郎(二十七才)次男仙常(二十一才)三男亀松(十八才)四男八蔵(十五才)五男吉兵衛(十三才)の父子六人が、つぎつぎと首切り役人の手により、むざんにも処刑〈しょけい〉されてしまいました。
このとき、作州大聖寺〈だいしょうじ〉の坊さんが、処刑のことを聞いて、親子のものを助けたいと駈〈か〉つけたのでしたが、時すでにおそく、山のふもとまで来た時はもうことが終ってしまっていました。

与右エ門父子が非業〈ひごう〉の死をとげてからは、その村の庄屋の家では思わぬ不幸が相ついだので、村の人たちは、役人を恨んで死んだ与右エ門のたたりだといっておそれました。
そうして、明治十六年(一八八三)になって、桜山にある六人の塚〈つか〉の横に、桜井神社(桜山の桜と井原の井をとって名づけた)という小さな新しいお宮をつくって与右エ門らを祭り、それから毎年四月十二日、部落で盛大なお祭りをし、あわれだった父子の霊をなぐさめたと申します。

(三日月町史からとる)

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