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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』西播編 > 宮内天神〈みやうちてんじん〉のいわれ(新宮町宮内)

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更新日:2012年10月29日

宮内天神〈みやうちてんじん〉のいわれ(新宮町宮内)

今から六百三十年ほどむかし、赤松氏は、摂津〈せっつ〉・播磨〈はりま〉・備前〈びぜん〉・美作〈みまさか〉の守護職〈しゅごしょく〉となってこの地方をおさめていました。そのころ、たくさんの城をつぎつぎと築きました。
城〈き〉の山城〈やまじょう〉は、本城の白旗城〈しらはたじょう〉(上郡町)につぐ大切な城となっていました。
そして、城の山城の鬼門〈きもん〉(よくない運命〈うんめい〉をもたらす東北の方角〈ほうがく〉といわれる)を守る寺として、宮内の西の山すそに、城禅寺〈じょうぜんじ〉を建てて城の安泰〈あんたい〉を祈りました。
そして、初代の住職として、霊丘宗古〈れいがくそうこ〉という、唐〈とう〉(中国)へ渡って修行〈しゅぎょう〉をつんだ高僧を迎えました。

やがて五、六年たった応安〈おうあん〉二年(一三六九)十二月二十八日の午前四時、方丈〈ほうじょう〉(禅宗〈ぜんしゅう〉の住職〈じゅうしょく〉の居室)に寝ておられた禅師〈ぜんし〉は、異様〈いよう〉な気配〈けはい〉にふと眼をさまされました。みると、日の出にはまだ間もあるのに、にわかに空が明るくなったとみるまに、衣冠束帯〈いかんそくたい〉に身を正された天満天神〈てんまてんじん〉さまが、たくさんの仏さまをしたがえて、方丈の西の梅の木の下に降りたたれたというのです。
禅師は、以前から天神さまをたっとんでおられました。このふしぎなできごとは、たしかに平素〈へいそ〉から禅師が天神さまをたっとんでおられたたまものでしょう。
禅師は、喜びの涙を流しながら、着ていた衣〈ころも〉で抱きかかえ、本堂に安置されました。
やがて、寺の一かくに、天神社殿を建てられおうつししたのでした。

ところがその後、赤松氏には最悪の運命がおとずれたのでした。歴史にも有名な嘉吉〈かきつ〉の乱〈らん〉がおこったのです。
赤松一族は、城〈き〉の山城を最後に二万の足利方の軍勢に攻められ、火の中に滅びてしまいました。城禅寺も天神社も兵火に焼かれてしまったのです。ただ天神さまのご神体だけは、大切に保護されていたとみえ、難〈なん〉をまぬがれています。
何もかもほろび去ったかに思われる中に、城中から逃げ出して生〈い〉きのびた、当時九才の千代丸が成長して、法師丸〈ほうしまる〉という子ができたのですが、その法師丸が四才のとき、かくれていた元〈もと〉の家来〈けらい〉にたすけられて、大きな手柄をあらわしたので、時の将軍から家を再興〈さいこう〉することをゆるされました。
次いで、後におこった応仁〈おおにん〉の乱〈らん〉で大功〈たいこう〉をたてたので、赤松氏は以前にもまして栄〈さか〉えました。法師丸こそ政則〈まさのり〉という名将になったのでした。

戦火に焼けてから六十年もたったころ、城禅寺や天神社は、政則によってもとに復〈ふく〉されたようですが、後に赤松氏どうしで戦ったり、また山陰地方の尼子氏〈あまこし〉が播磨へ入ってきて、さきに出た城の山城のあとへも入ったりして、城禅寺も天神社も、もう昔の姿ではあり得なかったはずです。
時は移り、わずかに残った城禅寺の、当時の住職や、赤松の旧臣たちが、力をあわせて、時の名工白髪光重〈しらひげみつしげ〉兄弟に、そのとき書写山円教寺の仕事をしていたのを中止させてまでして、「一間社流造〈いっけんしゃながれづくり〉」という、小さい形ながらもみごとなお社〈やしろ〉を作らせました。天文十三年(一五四四)のことです。
この宮大工〈みやだいく〉は、後に班鳩寺〈はんきゅうじ〉の三重の塔を造〈つく〉っており、書写山のもあわせてみんな、国の重要文化財になっています。
ご神体も、創建〈そうけん〉当時のものとわかったので、社殿とともに重要文化財になっています。
この天神さまは、江戸時代にも毎年二月二十五日には盛大にお祭りを行なってきています。
二月二十二日に、お太子さん(班鳩寺)のご会式〈えしき〉がすむと、植木屋やいろいろの店や興行師〈こうぎょうし〉たちが、天神さまの境内せましとばかり集まり、着飾った人たちが寒む空をついておまいりしてきています。

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