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更新日:2012年12月24日

車池のなぞ(揖西町)

やわらかい春の陽ざしが、山すその若葉をあたたかく照らしています。
「去年はたくさんあったのに、ことしはどうして少ないのかしら。」
娘は、持っていた竹かごを草におきながら、そっと腰をおろしました。わらびを摘〈つ〉んでいたとみえて、竹かごからみずみずしい緑が見えます。
里の娘でしょうか。長い髪〈かみ〉をわらで結んではいますが、それは黒々とにおうばかりに美しく、白いひたいが汗ばんで、見るからに健康そうです。
その美しい娘の坐っている草むらのすぐ下に、広々とした池がひろがっていました。青く澄んだ水が満々とたたえられ、まわりの木々をうつして、神秘的な静まりを見せていました。
「もし、もし。わらびをおさがしですか。」
娘は、はっと目ざめました。池を背に、若い男がにこやかに呼びかけているのです。りりしいまるで貴公子のような若者です。
「わらびなら、いいところを教えてあげましょう。」
若者は、そういうと、娘の竹かごを手にして、谷あいをのぼっていくのです。娘は、ひかれるようにあとを追っていきました。

娘は、山で会った若者のことを考えて、なかなかねむれませんでした。
道の悪いところで、そっと手をとってくれたやさしさや、上品なことば、やわらかな身のこなし、それに、別れぎわにささやいた「かわいいお人だ。」ということばが、何よりもあざやかに思い出されてくるのです。

「トン・・・トン・・・トン・・・」
娘が、やっとうとうとしかけたとき、だれかが、おしころすように戸をたたきました。
「あっ、あのお人だ!」
娘は、はじかれたようにとび起きると、急いで戸をあけました。
青白い月かげを背に、昼間のあのりりしい若者が、山百合の花をかかえて、立っているのです。

それから毎晩のように、男はたずねてきました。ふたりは、山百合のむせるような匂いの中で、来る夜も来る夜も、楽しい語らいを続け、幸福の中におぼれていきました。
だが、娘には、ただひとつ不満がありました。それは、男の素〈す〉じょうがわからないということです。その、かおかたち、ことば、ものごしなどから、この辺の者でないことはわかりますが、いったい、どこに住んでいて、どこへ帰るのか、何ひとつわかりません。なんべんもたずねてみるのですが、男は、そのつど、いつも話をそらしてしまうのです。

こうして、およそ一年がすぎ、ふたたび春がやってきましたが、娘は、去年の秋ごろから、からだの変化に気づいていました。赤ちゃんができたらしいのです。それが確〈たし〉かだとわかると、娘は、いっそう男のことが気にかかりました。せめて、どこに住んでいるのか、それだけでも知りたいと男に訴〈うった〉えました。
男は、赤ちゃんのできたことを聞くとたいそうよろこび、娘の訴えに、じっと考えこんだすえ、意を決したように申しました。
「わたしが何者であろうと、めおとになろうという決心が変わらないなら、今夜、わたしのあとについてきなさい。」と。
月の光の中を、男は、山に向かって歩いていきます。男の着ている衣〈ころも〉が、月の光をうけて、まるでうろこのようにきらきらと輝いています。蛇
男は、山すその、あの、大きな池にくると、ぴたりと立ち止まりました。そして、娘の方をふりかえると、ものもいわず、そのまま池の中へすいすいと、入っていきます。池の水面が、男の進むにつれて、ダイヤモンドをちりばめたように、光ってゆれました。
その光りが、池の中ほどまでつづいたとき、娘は、「あっ」と叫びました。今まで見えていた男が、一匹の大蛇〈おろち〉になって、泳いでいくのです。
「わたしは、この池の主〈ぬし〉だが、このように正体がわかっても、わたしへの愛がかわらぬなら、恐れずに池に入っておくれ。」
大蛇は、向きをかえて、こう呼びかけました。
娘は、こくりとうなずくと、なんのためらいも見せず、池へはいっていきました。

それからしばらくたって、村人は、この池のほとりからきこえてくる糸ぐるまの音を、耳にするようになりました。ブーン・ブーンという音が毎夜のようにきこえてくるのです。生まれてくる赤ちゃんのために、あの娘が糸を繰〈く〉っているのです。
村人は、いつか、この池を「車池」と呼ぶようになりました。月のきれいな夜、今でも、糸ぐるまの音がきこえてくるそうです。

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