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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』西播編 > 大昔の揖保(宍粟郡、揖保郡、龍野市、姫路市)

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更新日:2012年6月20日

大昔の揖保(宍粟郡、揖保郡、龍野市、姫路市)

大昔、播磨〈はりま〉の国(針間〈はりま〉の国というていました)の国津神〈くにつかみ〉(はじめから住んでいて、その国をおさめていた神のこと)は葦原志挙乎命〈あしはらのしこおのみこと〉、すなわち伊和大神〈いわのおおかみ〉でした。 

ところが或る日とつぜん、新羅国〈しらぎのくに〉(今の韓国〈かんこく〉)から王子の天日槍〈あめのひぼこ〉が船をつらねて、宇頭川〈うづかわ〉(今の揖保郡〈いぼぐん〉)の川口の宇須岐津〈うすきつ〉(今の網干港〈あぼしこう〉)にあらわれて、
「国王のあなたに、私の宿る〈やどる〉ところをかしてくださるように頼む〈たのむ〉。」
と申し出ましたが、主〈あるじ〉の神はこれをゆるしませんでした。すると、天日槍は劒〈つるぎ〉で海水をかきならし、渦〈うず〉をつくってその上に船を寄せ〈よせ〉合わせて一夜を過ごしたのです。

その勢い〈いきおい〉さかんなようすをご覧〈ごらん〉になった伊和大神はおどろいて、「異国〈いこく〉の神に国をとられぬうちに、早く国占め〈じめ〉をせねばならぬわい。」と大急ぎで、宇頭川をさかのぼることになりました。 

やがて中臣〈なかじん〉の丘(竜野市揖保町)にあがり、ここで食事をとられましたが、このとき、口もとから飯粒〈めしつぶ〉をたくさんこぼされたので、この丘を粒丘〈いいぼのおか〉とよぶことになりました。それによってそのあたりを粒里〈いいぼのさと〉ということになり、後に今の揖保郡〈いぼぐん〉となったのでした。
伊和大神が、川をさかのぼって今の新宮町平見〈ひらみ〉までこられたとき、大神の褶〈ひらび〉(平帯〈ひらおび〉)が落ちたので、この地を比良美村〈ひらびむら〉とよぶことになり、いつの頃からか今の平見となっています。

このとき、国占め〈じめ〉争いの相手の天日槍は、川の対岸の川戸村〈かわとむら〉(宍粟郡山崎町川戸〈かわと〉)に宿りましたが、川の瀬音が高く眠られず、「川の音いと高し。」(川の音がたいそう高いのう)となげかれたので、ここを川音村〈かわとむら〉といったということです。

それから二人の神は、宍禾郡〈しさわのこおり〉(宍粟郡〈しそうぐん〉)の山や谷を奪い〈うばい〉合ったので、ここを奪谷〈うばいたに〉といい、そのため谷の形が葛〈かつら〉のように曲がったのだといわれています。奪谷というのは、今の山崎町蔦沢〈つたざわ〉あたりのことでしょう。 

こうして先を争いながら宇頭川をさかのぼっていきましたが、天日槍の方が先に上流につきました。
おどろいた伊和大神は、「度らざる〈はからざる〉に、さきに到り〈いたり〉しか。」(思いもかけないことに、彼が先に着いたか)といわれたので、このあたりを、波加村〈はかのむら〉(波賀町〈はがちょう〉)ということになったということです。
川上に着いた二神は、ついにここで国占め争いの結末〈けつまつ〉をつけることになりますが、そのことは一宮町のところにくわしく出ています。
国争いとは別の話に、新宮町觜崎〈はしさき〉の山に、いただきから麓〈ふもと〉の揖保川の流れの中まで、屏風〈びょうぶ〉を立てたような形できり立った岩があって、文部省から天然記念物に指定されております。この岩は、伊和大神が、米俵を積んで天にのぼる橋とされたとつたえられており、山の名が御橋山〈みはしやま〉となっています。
觜崎の地名は、御橋山の端〈はし〉にあるところからできたのでしょう。またこの山の端は、鶴〈つる〉の觜〈くちばし〉のような形をしているところから、鶴觜〈つるはし〉山ともいい、それから觜崎の地名が生まれたともいいます。

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