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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』西播編 > 尼子山落城記〈あまこやまらくじょうき〉(赤穂市高野)

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更新日:2013年2月18日

尼子山落城記〈あまこやまらくじょうき〉(赤穂市高野)

永禄〈えいろく〉六年(一五六三)尼子義久〈あまこよしひさ〉は尼子山〈あまこやま〉の城に立てこもって、毛利元就〈もうりもとなり〉の大軍を迎えて合戦をしていました。
尼子山は、高さが二百メートルほどあって、三方は険〈けわ〉しい坂になっており、東の方だけ少しゆるい坂になっていました。険しいところには木が一本もなく、頂上から麓〈ふもと〉までひと目に見渡されましたが東のゆるい坂には、たくさんの木が生えていて昼でも暗く、道もありませんでした。頂上は平で広く東西二十五間(四十五メートル)南北四十間(七メートル)の本丸があり、そのまわりにいろいろの館〈やかた〉が並んでいました。館の外には高い塀がめぐらされているという要害〈ようがい〉でありました。

こんどの合戦には、さらにいろいろの計略〈けいりゃく〉をつくりました。
あるときは、塀の外にたくさんの大きな石をあつめてきて積み重ねて置いて、毛利の軍勢が急な山坂を攻めのぼってきたとき、いっせいにこの石をころがし落しました。毛利の軍勢は石といっしょにころげ落ちて、石の下敷になって死にました。
またあるときは、塀に近いところにたくさんの竹の皮を敷きならべておきました。攻めのぼってきた毛利の軍勢は、ここまできて竹の皮がすべってころびました。そのところへ城から尼子の軍勢が攻めて出て、すべって困っている毛利軍をこらしめました。

毛利の軍勢は、痛手〈いたで〉をうけるばかりでした。このとき一人の侍が「あの竹の皮に火をつけて、城まで燃え上ったとき一挙〈いっきょ〉に攻め入ったら城は落ちるにちがいない。」といいました。これは妙案〈みょうあん〉と、さっそく竹の皮に火をつけました。竹の皮はいっせいに燃えだしました。折からの風にあふられて頂上へと燃えあがって、いますこしで城に火がつくほどになりました。すると、にわかに空がまっ暗になり、雷が鳴って大雨が降り出しました。火はたちまち消えてしまって、毛利の作戦はまた失敗しました。

どうしても城を攻め落とすことができません。いまはただ城をとり囲んで思案〈しあん〉にふけっていました。
そのとき一人の老婆がきて、
「私は佐方のものですが、この城を攻める間道を知っています。この城は裏から攻めると楽に落とすことができます。案内いたしましょう。」といいました。老婆の案内で、毛利の軍勢は夜のうちに佐方からの間道を登って、あけ方に城内へ攻め入りました。尼子の軍勢はよく防ぎましたが、ついに破れて全員が討死しました。

それから何百年、高野村の人たちは、この老婆のしうちを恨〈うら〉んで、佐方の人と縁組をしませんでした。明治になって、この習わしはなくなったそうです。
落城した尼子山の上には、合戦のとき落下させた大石が今も残っていて、麓からでも見えるそうです。また、大事なときに雨が降って、城が救われたということから、その後、かんばつで雨がほしい時には、地元の人たちは松明〈たいまつ〉をもって山に登り、雨乞いをするとよく雨が降ってきたそうです。

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