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更新日:2013年1月7日

源氏と平家(小野市)

加古〈かこ〉川の流れだけを通すのだというように、東西からきびしく山がせまっている小野市の南の境〈さかい〉は昔から天然〈てんねん〉の要害〈ようがい〉となって、攻める側からも、守る側からも重視され、その争奪〈そうだつ〉のために激しい戦いが、何回となく行なわれてきました。
なかでも有名なのは、寿永〈じゅえい〉二年(一一八三)にあった室山〈むろやま〉合戦で、一万騎〈き〉とも二万騎ともいわれる平家の軍が、五段にかまえている陣地〈じんち〉にむかって、千騎あまりの源氏の兵がわきめもふらず突入し、紅白の旗を入り乱し、このせまい土地に屍〈しかばね〉の山を築くほどの戦いをしました。戦い敗れた源氏は、わずかに三十騎ばかりとなり、高砂から海へ逃〈のが〉れたといいます。
こうした土地がらだけに、ここにはいくつもの源氏と平家にまつわる物語が残されています。


(一)義経〈よしつね〉と「コクイ」(小野市樫山町)

源氏の年若い大将義経〈よしつね〉が、平家の一の谷の陣地〈じんち〉を攻めるため、丹波の国からまわり道をして、ひよどり越えにむかっていたのは、室山〈むろやま〉合戦の翌年でした。
ひきいる部下は三千騎〈き〉。枯れ草がところどころ行く手をふさぐような野中の道がつづき、ふたたび山にかかろうとするところに、一軒の農家がありました。その前で馬をとめた義経は、家来をやって道のようすを尋〈たず〉ねさせました。
その家来にともなわれて、家の中から一人の老女が出てきました。いかめしい軍兵〈ぐんぴょう〉の中に案内されてきても、少しもものおじせず、山越えの道をゆっくりと話しました。やわらいだ声をきき、おだやかな顔つきを見ていた義経は、不意〈ふい〉に馬からおりました。
義経は幼いころ平家のためにやさしかった母と引き離され、永く別れたままになっていました。今ここに立っている老女の中に、その母のおもかげをふと見たように思いました。あわただしい戦いの明け暮れの中で、しばらくは忘れていた母への想いが、一瞬〈いっしゅん〉胸の中をあつくしました。全軍に休息〈きゅうそく〉をとるように命じ、そばにあったてごろな石に腰かけました。なぜか目に見えぬ糸に引かれてでもいるようで、もうしばらくこの場にいたかったのです。
「せっかくお休みになりますのに、おん大将に差し上げるようなもののないのが、口惜〈お〉しゆうございます。今は、このような粉〈こな〉めししかございませんが、およろしければ、どうぞいくらでも、お召しあがりください。」
老女は、ついさきほどでき上ったばかりの焼き麦の粉めしを椀〈わん〉に入れて差し出しました。
「その心こそ、なによりの馳走〈ちそう〉なり。」とひと口たべた義経は、
「焼きかげんに、この塩のきかせかた。戦〈いくさ〉の庭にありがたき贈〈おく〉り物、思いもかけぬしあわせよ。」
と喜び、ほんとうにおいしそうに食べました。
ちょうど、その時です。この休み場所の南手にあたって、「ワーッ」と、歓声〈かんせい〉があがりました。山すそから清く澄んだ水が、急にたくさん湧き出してきたというのです。強い弓を引くので有名な亀井〈かめい〉の八郎が、行軍に疲〈つか〉れた兵や馬のために「もっと多くの湧き水を…」と心に念じながら、湧き水のにじみ出る所へ矢を射放〈いはな〉したところ、まことにふしぎなことに、まるでそれを待っていたかのように、矢の根の穴からドッと水が吹き出し、くぼ地にあふれる水となったのです。
「これこそ吉兆〈きっきょう〉である。これからの戦さに、わが軍はかならず勝つ。」と兵はみな勇みたちました。
その水は、まず義経にとどけられ、それから兵も馬もじゅうぶんに飲みました。
もう休息はよしと見て、義経はりりしく立ちあがりました。
老女へは、もてなしのお礼にと六畝〈うね〉(六〇〇平方メートル)の田をあたえました。呼び出した村の役人に、この田の租税〈そぜい〉はずっと免除〈めんじょ〉するようにといい渡しました。まったく例のないことで、よほどうれしかったのでしょう。
老女の息子〈むすこ〉を道案内に、老女や村人の見送りをうけながら、義経の軍勢は勇ましく進発〈しんぱつ〉し、樫村〈かしむら〉の坂をのぼって行きました。村人が、「一の谷の合戦で源氏が大勝利をおさめた」と知ったのは、それから数日の後でした。
ひとしきり、このあたりでは源氏の話でにぎやかでした。「義経がいたる・・・」ことから「コクイ」という言葉が残ってきました。源氏の軍勢がこの村からのぼって行った坂を「コクイ坂」と呼ぶようになりました。
国井(コクイ)と呼ぶ一族は、今もこのあたりに多く、「義経の腰かけ石」はそのままに残り、山すその湧き水はそのころとかわらず、四季〈しき〉おりおりの木立の影をうつして、つめたく澄んでいます。


(二)夜泣きの白拍子〈しらべし〉さん(小野市池尻町)

東国から攻めのぼってきた源氏に押されて、都落ちした平家の軍勢は一の谷の合戦にも敗れて、さらに西へと逃げて行きました。
そんなある朝のことです。加古川の流れがすぐそこに見下ろせる池尻〈いけじり〉村で、早起きしたお百姓が道のそばに倒れている一人の旅人を見つけました。いかにも疲〈つか〉れきったようすで、よほど遠くからきたのか、このあたりではついぞ見かけぬ、みやびた衣服をつけた若く美しい女の人です。
わけがありそうだと思ったお百姓は、近所の人たちの力をかり、とりあえずこの人を自分の家に運びこみました。そして、この親切な村人たちは、心をこめ手をつくして看病〈かんびょう〉しました。
いくらか元気になった時、旅人は少しずつ自分の身の上を話すようになりました。

その話によりますと、この人は京都に住んでいた白拍子〈しらびょうし〉でした。戦乱が起ってから別れ別れになってしまった平家のある若い武将を慕〈した〉うのあまり、その人を求めて、都を抜け出してきたのです。戦いのため土地も人の心も荒れています。戦場に急ぐ武士たちを避〈さ〉けて、敗軍の武将をさがそうとするのです。旅なれぬ都の女の人にできることではありません。苦労に苦労を重ねて、とうとうこの村で倒れてしまったというのです。

すっかり同情した村人たちは、無理なこととは知りながら、源氏方〈がた〉にはわからぬように、手分けをしてその武将の行方をさぐりました。
「もう遙〈はる〉かな西の国へ落ちて行ってしまったのだ。」といわれて、帰ってきた人がありました。
「入り乱れての戦いの中で討ち死にしたのではないか。」と聞いてきた人もありました。
よいたよりだけを待っていた白拍子〈しらびょうし〉は、村人から話されなくても最早〈もはや〉、再会ののぞみのなくなったことを察〈さっ〉して、いよいよ気落ちしてしまいました。村人のはげましや看病〈かんびょう〉にもかかわらず、ひるも夜も泣きつづけて、とうとうこの世を去りました。

その息〈いき〉を引きとる間ぎわに「見ず知らずの私に、皆さんはほんとうによくしてくださいました。自分でもあきれるほどに気弱くなって、夜ひる泣いてばかりいて、どんなにごめいわくだったことでしょう。せめてものご恩返しに、夜泣きして眠らぬ子がありましたら、あの世から、私がなおしてあげましょう。」といい残しました。
その後しばらくして、この村で夜泣きする子に困った親がありました。ふと、あの白拍子〈しらびょうし〉のさいごの言葉を思い出しました。なかば疑いながら、そのお墓におまいりしました。するとふしぎにも、その夜からピタリと夜泣きが止んでしまいました。つたえ聞いておまいりした人には、みな同じようなご利益〈りやく〉のあることがわかりました。やがて、だれいうともなく「夜泣きの白拍子〈しらべし〉さん」と呼ばれるようになりました。

神戸電鉄市場〈いちば〉駅の東百メートル。田のあぜに立つ一本の木の根元に、今も時どきはお礼まいりの真新しい「よだれかけ」をつけて、白拍子の祠〈ほこら〉はひっそりと祀〈まつ〉られています。

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