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更新日:2012年6月1日

ひれ墓(加古川市大野)

加古川下流の東西にひろがる平野は、古くから“印南国原〈いなみくにばら〉”と呼ばれていました。第十代崇神天皇〈すじんてんのう〉は、山陽地方を平定するため、吉備津彦命〈きびつひこのみこと〉を派遣されましたが、その一族、若建吉備津彦命〈わかたけきびつひこのみこと〉は加古川地方に居〈きょ〉を構え〈かまえ〉、大和〈やまと〉の文化を移しました。

やがて、この家に美しい女の子が生れました。“この地方を治める家の娘”というので、印南別嬢〈いなみのわきいらつめ〉と呼ばれました。(のち、稲日大郎姫命〈いなひのおおいらつめのみこと〉と呼ばれます。)

大きくなるにつれて、その美しさとかしこさは、人びとの評判になり、とうとう、大和の宮居〈みやい〉まで伝わりました。第十二代景行〈けいこう〉天皇は、この嬢〈いらつめ〉を妃〈ひ〉に迎えたくなり、息長命〈おきながのみこと〉を仲人とし、装い〈よそおい〉、飾って〈かざって〉播磨〈はりま〉へたずねてこられました。嬢はこれを聞くとびっくりし、南都麻〈なびつま〉の島に渡り、姿をかくしました。

天皇の一行は、まもなく、加古川に近い加古の松原に着かれました。しかし、嬢〈いらつめ〉の姿が見えません。あちこち探しておられますと、一匹の白い犬が、海の方へ向かっていつまでも吠えて〈ほえて〉います。天皇は、「あれは、誰の犬か。」とたずねられました。供〈とも〉の者は、「嬢が飼っていた犬でございます。」と答えました。

天皇は、嬢が島にかくれたことをこのことから察せられました。そして、舟を出して島に渡り、嬢をつれ帰り、新宮を建てて結婚されました。九州の熊襲〈くまそ〉、東北の蝦夷〈えぞ〉を征伐〈せいばつ〉して大きなてがらをたてられた日本武尊〈やまとたけるのみこと〉は、景行天皇とこの嬢との間に生れられたかたです。

その後、年を経て、嬢はこの宮でなくなられました。そこで、すでにつくられている日岡山の陵〈みささぎ〉に葬ろう〈ほうむろう〉と、舟に乗せ、印南川〈いなみかわ〉(現在の加古川)を渡っていますと、突然、旋風〈せんぷう〉(つむじ風)が起って遺体〈いたい〉を川の中へまき入れてしまいました。人びとはびっくりし、あちこち手をつくして探しました。しかし、どうしても見つかりません。ただ、嬢の使っていた匣〈くしげ〉(くしなどを入れておく箱)と、身につけていた褶〈ひれ〉(長いうすい布)だけが得られました。日岡山は、加古川下流の平野を一望におさめる景勝の地ですが、嬢の身につけていられたものとしては、ただ、これだけが入れられました。

この御陵〈みささぎ〉を「ひれ墓」というのは、こうしたことのためです。

(『播磨風土記』)

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