• お問い合わせ
  • 文字サイズ・色合いの変更
  • サイトマップ
  • 携帯サイト

メニュー

ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』東播編 > 時光寺阿弥陀如来〈じこうじあみだにょらい〉の由来〈ゆらい〉(高砂市阿弥陀町)

ここから本文です。

更新日:2012年11月19日

時光寺阿弥陀如来〈じこうじあみだにょらい〉の由来〈ゆらい〉(高砂市阿弥陀町)

高砂市阿弥陀〈あみだ〉町の南よりに、浄土宗西山派〈じょうどしゅうせいざんは〉に属〈ぞく〉する遍照山時光寺〈へんしょうざんじこうじ〉という由緒〈ゆいしょ〉あるお寺があります。ご本尊の阿弥陀如来像は、海中からお姿を現わされたもので右手がありません。このお寺の開基〈かいき〉である時光上人〈じこうしょうにん〉とご本尊について、次のようなお話が伝わっています。

時光上人は俗名を源経家〈みなもとのつねいえ〉と申し、清和源氏の嫡流源満仲〈ちゃくりゅうみなもとのみつなか〉の九代の子孫〈しそん〉にあたる武門に生まれました。幼少のころからすぐれた才能があって、将来は智勇兼備〈ちゆうけんび〉の名将として大成するものと一門の望みを託〈たく〉されていましたが、ご本人は人の世の無常を深く感じ、地位の栄達〈えいたつ〉や現世の栄華〈えいが〉を求めるよりも、仏門に帰依〈きえ〉することをいつも願っておられました。そして、ついに天福〈てんぷく〉元年(一二三三)十九才の時に発心〈ほっしん〉して家を出られ、摂津国武庫川〈せっつのくにむこがわ〉橋のほとりにある浄橋寺〈じょうきょうじ〉の澄空〈ちょうくう〉上人のもとで剃髪〈ていはつ〉してお弟子〈でし〉となり、名を時光坊〈じこうぼう〉と改められました。

澄空上人のもとで仏道の修業を積まれた時光上人は、衆生済度〈しゅじょうさいど〉のため諸国行脚〈あんぎゃ〉の旅に出られましたが、その途中伊保崎〈いほざき〉村の心光寺〈しんこうじ〉に滞在して尊い教えを説かれることになりました。そして、お説教の余暇〈よか〉にとなり村の曽根にある菅原道真公〈すがはらみちざねこう〉の廟社〈びょうしゃ〉に参詣〈さんけい〉して護法〈ごほう〉を祈願〈きがん〉されていました。
曽根村の日笠山〈ひかさやま〉が海と接する南のふもとに、黒岩と呼ばれる大きな岩山があって、その岩の上は平坦〈へいたん〉で禅座〈ぜんざ〉として好適の場所となっていました。

ある日、上人はその場所を発見されると、さっそく岩の上に小さなあばら屋をつくり、
「われ、生身〈しょうしん〉の阿弥陀如来を、この眼で拝みまいらせるまでは寺に帰らず。」
と申されて、百日の間すわって修行する大願を立てられました。
毎日、米粒〈こめつぶ〉をわずか数十粒口にされるだけで、岩の上にすわって三部経の読誦〈どくじゅ〉と弥陀〈みだ〉の名号〈みょうごう〉念仏に専心され、昼夜身を臥〈ふ〉すことなく睡魔〈すいま〉と戦いながら七十日あまりを過ごされました。そうしたある日、どこからか一人の年老いた漁師が現われて、
「ここから南方の海上七百メートルほどの所に、南島という一つの小さな島がございます。昔から人の住まぬ遠い土地で、霊験〈れいげん〉あらたかな明神〈みょうじん〉が鎮座〈ちんざ〉まします。」
と告げました。そこで上人は、
「その島に赴〈おもむ〉けば、わが大願はかならず成就〈じょうじゅ〉するであろう。」
と申されて、老人の漁船に乗って南島に着かれたとたんに、老漁師の姿は消え失せました。

上人は、この島で断食〈だんじき〉してさらに三十七日の業を続けられましたところ、満願〈まんがん〉の夜に西方から五色〈しき〉の彩雲〈さいうん〉に乗った一人の高僧が現われて、眉間〈みけん〉から光を放ちながら声高らかにお告げになりました。
「なんじ、まことに生身の阿弥陀如来を拝まんと願うならば、ただちに立ち帰り、東は二見の浦から西は飾磨の津にいたる七浦の海面に網を引くがよい。かならずや如来像を得るであろう。これは単になんじの願いを聞きとどけるためだけではない。一切〈いっさい〉の衆生〈しゅじょう〉を済度〈さいど〉せんがためである。」
告げ終わると同時に、その高僧のお姿は雲の中にかき消えてしまいました。

上人はさっそく心光寺に立ち帰ると、伊保崎の漁師たちを集めて尊いお告げを知らせ、ただちに船を出して、二見・阿閇〈あえ〉・高砂・曽根・福泊〈ふくどまり〉・妻鹿〈めが〉・飾磨〈しかま〉の七つの浦に網を入れて引きますと、一体の弥陀木像〈みだもくぞう〉が海中から上がってきました。上人はたいそう喜ばれてその木像を持ち帰られましたが、その夜また高僧が夢枕に立たれてお告げになりました。
「なんじがきょう得た像は本物ではない。昔、行基〈ぎょうき〉が彫〈ほ〉った物である。今一度海中を探ればきっと真の像を得ることができるであろう。ゆめゆめ疑うことなかれ。」
上人は驚いて目を覚〈さ〉ましくわしくその像を拝しますと、背面に「行基作」の三文字が見えました。

翌日ふたたび船を出して七浦に網を引きますと、このたびは、ある浦ではお首、ある浦ではお身体〈からだ〉、また手、足というように、一体ではなくそれぞれの浦で一物ずつ上がってきました。それを集め合わせますと身長一メートルほどの金色〈こんじき〉に輝く阿弥陀如来の像となりました。海中から現われたにもかかわらず、金箔〈きんぱく〉は少しもそこなわれず、また継〈つ〉ぎ目も見えず、そのうえご尊体からは馥郁〈ふくいく〉たる香気まで漂〈ただよ〉うてきて、さながら生身を拝するような如来像でした。が、どうしたわけか右手が欠けていましたので、さらに網を入れて海中を探ろうとしましたところ、また高僧のお告げがあって、
「右の手を海中に残しておくのは、海上をゆききする衆生〈しゅじょう〉を救わんがためである。強〈し〉いて求むるなかれ。」
ということでしたので、右手のないままで心光寺に安置いたしました。
その後、心光寺の土地が狭いので、曽根村天神林の西の日笠山のふもとに新しく寺を建てて時光寺と名づけ、建長〈けんちょう〉元年(一二四九)上人三十五才の春に阿弥陀如来像をお移しいたしました。
心光寺から移る時に、如来像を引き上げた網を埋めましたので、それからは心光寺を網堂〈あみどう〉と呼ぶようになり、現在も伊保崎東部にその堂が残っています。

さて、新しいお寺の落慶供養〈らくけいくよう〉の当日のできごとです。本尊の眉間〈みけん〉から発する金色〈こんじき〉の光がはるか北の方を照らしています。そこで光の指す方向をたどって行きますと、曽根の北方にある高原のすばらしく景色のよい所に光が止まっていました。これこそ如来が衆生済度の縁〈えん〉のある地としてお望みになった所にちがいないと人びとは語り合いました。
その後、文永〈ぶんえい〉十年(一二七三)にこの地に新しく寺院を造営して、曽根の時光寺からこの寺に本尊の阿弥陀如来像をお移しいたしました。そのとき、上人は北原と呼んでいたこれまでの地名を改めて、本尊の名にちなんで阿弥陀村と名づけられました。これが現在の阿弥陀町の名の起こりです。
なお、上人が七十日あまりの難業を続けられたという曽根の黒岩は、黒い岩肌〈はだ〉の側面に十三体の尊像の浮き彫りをとどめたまま、現在も日笠山東がわ山すその道路脇に残っています。

お問い合わせ

情報管理部広報係

電話番号:078-331-9962

ファクス番号:078-331-8022