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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』東播編 > 林崎堀割〈はやしざきほりわり〉(明石市林崎町)

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更新日:2013年3月11日

林崎堀割〈はやしざきほりわり〉(明石市林崎町)

「おーい、水がきたぞ。水が―。」
明暦〈めいれき〉三年(一六五七)四月、田植〈たう〉えにかかる前のある日。鳥羽〈とば〉の野野池〈ののいけ〉のほとりでは、前の年の冬、明石郡平野村黒田(神戸市垂水区平野町)から、印路山〈いんじやま〉の中腹を掘〈ほ〉りわって、鳥羽〈とば〉まで十二キロメートルにわたるあいだに溝〈みぞ〉をほって、明石川の水をひく工事〈こうじ〉をつづけていました。
それは、この林崎〈はやしざき〉地方一たいは、池をほってもためる水がないため、夏の日照りには、農家のくろうは大へんなものでした。それで、もしできたら、明石川の上流から水を引いたらどうだろうと考えついたのが、野々上〈ののがみ〉組の代官伊藤次郎右衛門〈だいかんいとうじろうえもん〉や村々の庄屋〈しょうや〉でした。

そのころ、和坂〈かにがさか〉に山崎宗左衛門〈そうざえもん〉という測量家〈そくりょうか〉がいました。この人にそうだんしました。宗左衛門は、いろいろ考えて、明石川の上流の平野村黒田から印路〈いんじ〉村・中村・上津橋をとおって鳥羽新田の野野池まで、毎夜十二時から午前四時まで、ちょうちんの光で土地の高低〈こうてい〉を一週間かかってはかり、できる見とおしがつきました。このほうこくをもとに、次郎右衛門から、明石城主松平忠国〈まつだいらただくに〉にねがい出ました。しかし、
「そんなむちゃな計画は、だめだ。」
と、忠国から、さんざんしかられました。
しかし、庄屋たちは、
「もし、この設計〈せっけい〉が不成功におわって水が通じないときは、わたしどもは、どんなきびしいおとがめを受〈う〉けましてもかまいません。」
と、真〈ま〉心こめていいましたので、ようやく工事をゆるされました。そこで、農閑期〈のうかんき〉(農家のひまな冬)を利用して工事をはじめました。

工事にでる人は、みな家族〈かぞく〉と水さかずきをして命〈いのち〉がけででかけ、もう寒い冬の夜だのに、工事にはげみました。途中〈とちゅう〉の村村の反対やぼう害〈がい〉にあいましたが、それにもめげず、掘〈ほ〉り進みました。
明暦三年四月、ちょうど田植えにかかる前、はば一・五メートル、長さ十二キロメートルの長いみぞが、えんえんと、つづいて出来上がりました。まもなく、いいぐあいに大雨がふり、明石川の水がふえましたので、みごとに、この溝〈みぞ〉に水がながれるようになりました。
そのころとしては、大へんむずかしい工事で、しかも、農民が、自分から進んで計画〈けいかく〉し、工事を進めたものです。はじめは、工事を心配し反対した城主忠国も、その努力をほめ、毎年、溝のしゅうりのお金と、人夫〈にんぷ〉千人をだしてくれるようになりました。

鳥羽の野野池のそばに、林崎堀割記念碑〈ほりわりきねんひ〉が、たっています。林崎堀割は、その後、鳥羽新田・大久保村・魚住村にまで利用され、今でも、明石の農業に、大きなめぐみをあたえています。

(郷土明石・林崎村誌・魚住村誌から)

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