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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』東播編 > 梅の井と曽根〈そね〉の松(高砂市伊保町・曽根町)

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更新日:2012年10月22日

梅の井と曽根〈そね〉の松(高砂市伊保町・曽根町)

今から千七十年ほどの昔、延喜〈えんぎ〉の御代〈みよ〉のことです。
菅原道真公〈すがはらみちざねこう〉は藤原時平〈ときひら〉のはかりごとにあって朝廷から退〈しりぞ〉けられ、築紫国〈つくしのくに〉(九州)の大宰府〈だざいふ〉に左遷〈させん〉されることになりました。配流〈はいる〉の身を心寂〈さび〉しく船に託〈たく〉して東から西に向かって瀬戸内海を下〈くだ〉って行かれる途中、播磨国〈はりまのくに〉伊保の港に船を留〈と〉めて上陸され、土地の人に飲み水をお求めになりました。
「この地の水は塩気が多いので、貴〈たっと〉いお方のお口にはとても合いますまい。」
と一人の老人が申し上げますと、
「毎日常用〈じょうよう〉する飲み水の水質〈すいしつ〉が悪くては、さぞ困ることであろう。それでは、ここに井戸を掘〈ほ〉ってみるがいい。」

道真公がお示〈しめ〉しになった場所を掘〈ほ〉り始めますと、いくらも掘〈ほ〉らないうちに美しい水がこんこんと湧〈わ〉き出てきました。手にすくって口に含〈ふく〉みますと、実〈じつ〉においしい真清水〈ましみず〉でした。道真公はそのとき近くに咲き誇〈ほこ〉っていた梅の枝を持って、お姿をこの浅い井戸にお写しになりました。村人たちはたいそう喜んで「梅の井」と名づけ、末長く恩恵〈おんけい〉を受けることになりました。しかもこの井戸はいつも一定の水位を保〈たも〉ち、あまり深く掘るとかえって水質が悪くなるので「不増不減〈まさずへらず〉の井〈い〉」とも呼ばれ、現在も伊保町梅井の人たちに愛用されています。

さて、梅の井でふしぎなできごとを示された道真公は、白砂青松〈はくさせいしょう〉の続く長い浜辺〈はまべ〉を歩〈あゆ〉まれた後、曽根〈そね〉の西にある日笠山〈ひかさやま〉に登られて四方をごらんになりました。北には広びろとした印南の平野が開けています。南を望めば、うららかな春の日射しを浴びた播磨灘〈はりまなだ〉が、東は明石の水門より西は室津〈むろつ〉の沖合〈おきあ〉いにかけて展望〈てんぼう〉が開け、海上をゆききする大小の船の白帆〈しらほ〉はさながら水辺〈べ〉にたわむれる胡蝶〈こちょう〉と見ちがうほど美しさです。
道真公は山上の小石に腰掛〈こしか〉けて、しばらくの間は身の悲しさも忘れて眼下の景勝〈けいしょう〉を楽しまれました。

栄枯盛衰常〈えいこせいすいつね〉ならぬ人の世と異〈こと〉なる自然の美しさに深く感動された道真公は、腰掛〈こしか〉け石のそばにはえていた小松を手に取って山をお下〈くだ〉りになりました。そして山のふもとの土地を選んで、
「われに罪〈つみ〉がなければ、いついつまでも栄えよ。」
とおおせられて、その小松を植えられたのでした。

その後、道真公の無実〈むじつ〉の罪は晴れ、ご遺徳〈いとく〉はますます世に高まって、ついに天満天神〈てんまてんじん〉として祭られるようになりましたが、曽根の地に植えられた小松もお言葉のとおりに年と共に枝を伸ばし葉を茂らせて、のちの世までも名松〈めいしょう〉・霊松〈れいしょう〉とほめたたえられるまでに成長したのでした。

さて、このお手植〈てうえ〉えの松は「初代〈しょだい〉曽根の松」として、その幹〈みき〉が古霊松殿〈これいしょうでん〉内に保存されていますが、実に雄大なもので、曽根の浜辺の群松〈ぐんしょう〉を圧して小山のように堂堂と君臨〈くんりん〉していたという昔の記録を裏書〈うらが〉きしています。

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