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更新日:2012年6月1日

太閣渡し(小野市新部町)

ところどころ中洲〈なかす〉をのこし、曲がりくねった広やかな加古川は、清らかな水をたたえ、ゆるやかに流れています。その中流、河合〈かわい〉の川原に、新部〈しんべ〉新部の渡しがあります。四百年もの間、幾度も作りかえられながら「大閣丸」は多くの人たちを運んできたのです。この渡しのべつの名を「大閣渡し」ともいいます。

天正六年、織田〈おだ〉氏の命をうけた羽柴秀吉は、三木城を攻めるため、ひそかに東条〈とうじょう〉の安国寺に行こうと、この新部〈しんべ〉村の川原にやってきたのです。現在の北の大門橋、南の栗田橋のなかった昔のこと、東条に行くにもっとも適した場所でありました。船のなかったこの川、けらいたちはめいめい渡るにしても、戦の総大将である秀吉はそうはいきません。近づきのけらいは、ただちに村の百姓を集めて命令をだしました。
「皆の者、秀吉公がこの川をお渡りなる。大いそぎでいかだをつくって進ぜよ。」村人たちは大いそぎで準備にかかりました。百姓の新助〈しんすけ〉もその中の一人でした。にわかのことで適当な材料もなく、彼らはそれぞれ家から、障子〈しょうじ〉、戸板〈といた〉、竹などをかき集め、やっとのことでいかだをつくりあげたのです。
秀吉を乗せたいかだは、新助らの船頭〈せんどう〉で岸を離れました。川の中ほどまでくると、人の重みでいかだの底から水がしみこんできました。竿〈さお〉をあやつる新助は、きがきでありません。その上、川の水をはね、秀吉の足もとを濡らしたのです。


「おい船頭、水がかかるではないか。無礼〈ぶれい〉であるぞ。」けらいの一人が新助らをたしなめました。
「へ、へーい。」新助らは、恐る恐る秀吉の顔をうかがいました。秀吉は、何事もなかったかのように、静かに川の向こうを見やったままでした。いかだは無事向こう岸に着くことができました。新助らはほっとした面持ち〈おももち〉でわが家に帰りました。

その日の夕方のこと、ふたたび使いのさむらいがやってきました。
「きょう、いかだを渡したものども、お召しであるぞ。そうそうに、これへ出て参れ。」これを聞いた村人たちは大騒ぎ。なにしろ封建〈ほうけん〉時代のこと、百姓が、いまをときめく秀吉の前に引き出されるのです。これはきっとお手打ちに違いないと思うのもあたりまえです。
「おーい大へんだー、大へんだー。きょういかだを渡した者を、みんなお召しだぞ。あのお使いのようすからみるとこれはきっと、お手打ちに違いない。」「そうかも知れない。秀吉公の足を水で濡らしたからだろう。」身に覚え〈おぼえ〉のある百姓たちは、震え上がって誰一人として出ていこうとしません。その時、新助は、「どうせかくれていても、お検べ〈しらべ〉があればすぐわかることだ。よし、わしが行っておとがめを受けてこよう。」こういって使いの後ろについて、秀吉の前に出たのです。それでも心の中では、いまにお手打ちがあるのではないかと、ぶるぶる震えていました。

しかし、呼び出された新助は、思いもよらず秀吉から、おほめのことばをいただき、ほうびとして次のようなお墨付〈すみつき〉(証明となる書きもの)をさずかったのでした。

  • 一、租税〈そぜい〉や夫役〈ふえき〉を免除〈めんじょ〉すること。
  • 一、渡し〈わたし〉守世襲〈もりせしゅう〉の恩典〈おんてん〉をさずけること。
  • 一、舟をつくる材料として山と、やぶをあたえること。

その後、新助は舟をつくり、新部〈しんべ〉の渡し守〈わたしもり〉となりました。そして、舟の名も「大閣丸〈たいこうまる〉」と名づけ、子孫代代この業を継ぎ、四百年後の今日まで大閣渡しを引き継いできたのです。

近年、水防のため改修〈かいしゅう〉されて堤〈つつみ〉は高くなりました。堤に立つと、向こう岸に夏草の間を見えかくれして、大閣道〈たいこうみち〉が見えます。利用する人も少なくなったこの渡し、もう昔のおもかげはみられません。しかし、何代目かの「大閣丸〈たいこうまる〉」は、小さな釣舟と共に、きょうも、ゆるやかな流れに浮かんでいます。

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