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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』東播編 > さすらいの二皇子(三木市志染町窟屋〈いわや〉)

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更新日:2013年1月7日

さすらいの二皇子(三木市志染町窟屋〈いわや〉)

志染〈しじみ〉町窟屋〈いわや〉の東、金山のふもとに金水〈きんすい〉とよばれる岩室〈いわむろ〉があり、高さ五メートル、幅十五メートル、奥行十二メートルほどで中には水がたまっています。菜種〈なたね〉の花の咲くころになると、光り藻〈も〉のために、この水が金色〈こんじき〉にかがやくことで有名です。ここがオケ皇子、ヲケ皇子のご兄弟が身をかくされた所と伝えているのです。

二十代安康〈あんこう〉天皇は位を、十七代履中〈りちゅう〉天皇の皇子〈おうじ〉である市辺押磐〈いちのべのおしいわ〉皇子に伝えようと考えられましたが、それをさとった大泊瀬〈おおはつせ〉皇子(後の二十一代雄畧〈ゆうりゃく〉天皇)は不満に思い、押磐皇子を狩りに誘〈さそ〉って殺してしまいました。父君を失った二皇子は、わざわいが自分たちにおよぶのをおそれ、家来〈けらい〉の日下部使主〈くさかべのおみ〉父子に守られて丹波〈たんば〉にのがれ、さらに播磨〈はりま〉の志染まで落ちのびてこられました。使主は、きびしい追求〈ついきゅう〉の目をそらすためにこの岩室で自殺、息子の吾田彦〈あだひこ〉にあとをまかせました。この岩室の一町(約百十メートル)ばかり北の山に、最近まで一本の老〈お〉い松がそびえていた塚が、使主の墓だといいます。

幼〈おさな〉い二皇子は吾田彦にはげまされ、しばらく岩室にかくれていましたが、いつまでもこうしてはいられません。相談の上、丹波の小子〈わくご〉と名をかえて、志染の里の忍海辺細目〈おしんべのほそめ〉という豪族〈ごうぞく〉に牛飼〈か〉いとしてやとわれました。それからは、山へ行って柴〈しば〉を刈〈か〉ったり、田をたがやしたり、それはそれは苦労の日日をおくられたのでした。

そんなある年の秋、細目の家で新築落成〈しんちくらくせい〉のさかもりが催〈もよお〉されました。たまたま都から国司〈こくし〉の山部連小楯〈やまべのむらじこだて〉が視察〈しさつ〉の途中、この村に立ちよられたので、お客さまとして迎えられました。酒もりもたけなわのころ、小楯はかまどの火を守っている二少年に目をとめました。どこか普通の少年とちがった気品をそなえているのを感じ、ひとさし舞うように命じました。元気な弟君のヲケ皇子が立って祝いの歌をうたい、さらにすすめられて、美しい声で歌いながら舞いました。

淡海〈あわみ〉は水たまる国 やまとは青垣〈あおがき〉

青垣のやまとに坐〈ま〉しし市辺〈いちのべ〉の天皇〈すめらみこと〉がみ足末〈あなすえ〉 やつこらま 〈風土記〉

『近江〈おうみ〉の国は美しい湖のある国ですが、やまとも垣根のように緑の山山にかこまれた美しい国です。このやまとの国にいらっしゃってお治めになられた市辺天皇の皇子であるよ。わたくしたちは。』という意味ですが、歌いながら、それとなく自分の身分を明かされたのでした。

これを聞いた小楯は、上座〈かみざ〉からすべりおり、二皇子を上座〈かみざ〉におすえして、今までの無礼〈ぶれい〉を謝しました。そして人びとに皇子たちを大切にお世話するようにいいつけて、小楯は急ぎ都にのぼって二十二代清寧〈せいねい〉天皇に申し上げました。お子さまのなかった天皇は大へんお喜びで、すぐ二皇子を都にお召しになりました。こうして二皇子は永い苦労の末に、なつかしい都に帰られ、やがて次つぎと天皇の位につかれ、りっぱな政治をなさいました。すなわち二十三代顕宗〈けんそう〉天皇(ヲケ皇子)、二十四代仁賢〈にんけん〉天皇(オケ皇子)と申します。弟君〈おとうとぎみ〉がさきに天皇になられたのは、都にもどることのできたのは弟君の歌ったおかげだといって兄君がすすめたためだといいます。

(三木高校編「伝説美嚢野」)

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