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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』東播編 > つかみ右大臣〈うだいじん〉(明石市林崎町)

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更新日:2013年2月25日

つかみ右大臣〈うだいじん〉(明石市林崎町)

むかし、明石の浦〈うら〉に刑部〈ぎょうぶ〉という漁師〈りょうし〉がすんでいました。
ある日、沖〈おき〉で網〈あみ〉をひいていますと、薬師如来像〈やくしにょらいぞう〉が網にかかって上がってきました。
刑部は、いつもしあわせにくらせるのは、仏〈ほとけ〉さまのおかげと、感謝していましたから、薬師如来像を自分ひとりのものとしないで、長林寺に安置〈あんち〉しました。そして、仕事に精〈せい〉をだし、朝晩の念仏〈ねんぶつ〉もかかすことはありませんでした。

ところがそのころ、天皇が大病にかかられ、高い熱と強い痛〈いた〉みに苦しまれていました。天皇のおそばにつかえる人たちは、なんとかおすくいしたいと思い、占〈うらない〉をしてもらいました。
占〈うらない〉によると、「端午〈たんご〉の節句〈せっく〉に生まれた女の子の生きぎもが一番よい。」とのことで、あわてて、国ぐににおふれが出されました。
ちょうど、刑部の娘が、その五月五日生まれでしたので、役人たちのきびしい命令で、やむなく娘は生きぎもをとられてしまいました。
そのとき、刑部は、かけがえのないかわいい娘が死ねば、自分も死ぬかくごをきめていました。
しかし、ふしぎなことに、娘には何の異常〈いじょう〉もおこらなかったのです。

病気がなおり、お元気になられた天皇は、日ごろの刑部の信心深〈しんじんぶか〉さや、薬師如来像のことを伝えきかれ、「これは、きっと薬師如来が娘の命にかわられたのだろう。」と、信じられました。
天皇をはじめ朝廷〈ちょうてい〉ではたいへんおどろかれ、後悔〈こうかい〉されて、罪〈つみ〉のない娘〈むすめ〉の命をとろうとしたざんげと、薬師如来や刑部への報恩〈ほうおん〉の気持ちとして、彼の娘に「つかみ右大臣」という位〈くらい〉をさずけられました。
日富美〈ひふみ〉町のあたりにあった「てつかみ屋敷〈やしき〉」は、この「つかみ右大臣」のやしきあとであるといわれています。

しかし、信心深い刑部親子の住んでいた屋敷も、世がかわるにつれて、人びとのあやまったうわさから「決して住むことができず、たとえ住んでも、きっとおそろしいたたりがある。」とまで、つたえられるようになりました。
元禄〈げんろく〉のころ、勇気のある人が、「めいしんにはとらわれない。」と、そこに、長く住んだそうですが、何のたたりも、さいなんもおこりませんでした。

(長林寺薬師如来記から)

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