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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 力〈ちから〉もちのお相撲〈すもう〉さん(兵庫区山田町)

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更新日:2013年2月11日

力〈ちから〉もちのお相撲〈すもう〉さん(兵庫区山田町)

東小部〈ひがしおうぶ〉村(いまの鈴蘭台〈すずらんだい〉の北)に生れた、大木戸弾右衛門義高〈おおきどだんえもんよしたか〉という力士〈りきし〉がおりました。背の高さは六尺〈しゃく〉四寸〈すん〉(一九四センチ)、重さは四十二貫〈かん〉(一五七キロ)といいますから、たいへん大きいのでよく知られていました。弾右衛門は、いまから二百九十年ほどむかしの貞享〈じょうきょう〉という年号のころの人で、のちには、大坂(大阪)町奉行のおかかえの力士になって名をあげた人です。

弾右衛門は、幼いころから相撲〈すもう〉がすきでした。やがて大きくなって、なんとかえらい相撲取りになりたいと思って、垂水区伊川谷〈たるみくいかわだに〉の太山寺〈たいさんじ〉の薬師堂〈やくしどう〉にこもって、大力をさずかりたいと二十一日間の断食をして、薬師如来〈やくしにょらい〉さまにおいのりをしました。弾右衛門は百人力がほしいと思ったのです。
すると、満願〈まんがん〉の夜の丑〈うし〉みつどき(午後二時ごろ)、赤ん坊をだいた白髪〈はくはつ〉の老人があらわれて、
「この子をしばらく抱〈だ〉いていておくれ。」
と、弾右衛門にあずけました。弾右衛門は、
「いとやすいことだ。」
と、赤ん坊をうけとると、老人はかき消すようにいなくなってしまい、いつまでたっても帰ってきません。ふしぎに思っているうちに、夜が明けました。ふと見ると、抱いているのは赤ん坊ではなく、とても大きな岩だったのです。弾右衛門は、自分の願いがかなったのだと、たいへんよろこびました。

しかし、あまりの怪力〈かいりき〉のために、あるくと足が地面にめりこみ、自由にあるけません。また、そのあとがくぼみになって、雨が降ると水たまりになるので、村の人たちが苦情〈くじょう〉をいうようになりました。弾右衛門は、自分があまりにも大きな望〈のぞ〉みをしたことに気がつきました。
人間はなにも百人力もの力は必要ないんだ。その時に応じて、相手の倍〈ばい〉だけの力でたくさんだ、と考えたのです。弾右衛門は、「向こうの倍の力」にしてほしい、と願をかけなおし、そのとおりになったといい伝えられています。

弾右衛門は、自分がどのくらい力があるのかと、ためしてみようと思いました。お寺の仁王門〈におうもん〉の柱をかかえて、ぐっと持ちあげると、柱は苦もなく礎石〈そせき〉をはなれました。弾右衛門は、手近かにあったコッパ(木の削〈けず〉りかけ)をひらって、その間にはさんで、柱を持ちあげたしるしとしました。また、弾右衛門は、直径三十センチほどの丸い石を、たもとに入れてあるいていたといわれています。この石は、「たもと石」といって、今も残っているそうです。

弾右衛門の弟子〈でし〉に、熊内村〈くもちむら〉(今の葺合区〈ふきあいく〉)で生れた、甲山権太〈かぶとやまごんた〉という力士がおりました。とても力が強く、こんな話が残っています。ある夏の夕方〈ゆうがた〉、師匠〈ししょう〉の弾右衛門が、野天で鉄砲風呂〈てっぽうぶろ〉に入っていますと、にわかに雨が降ってきました。権太は、師匠が入っているままの風呂桶〈ふろおけ〉をかかえて、軒下〈のきした〉へはこんだといわれています。
世の中には、力もちの人がいるものですね。

(故内田信太郎―明治一〇年生談)

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