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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 須磨の関守(須磨区関守町)

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更新日:2012年6月1日

須磨の関守(須磨区関守町)

須磨という地名がどこからきたものかについて、さまざまな説があります。

その一つに、摂津〈せっつ〉の国の西のすみにあるため、スミというのがなまってスマとなったという説があります。この説にも見られるとおり、須磨は摂津の西はしです。そして摂津は、都の周辺として日本の最も重要な地域である畿内〈きない〉の西のはしなのです。いいかえると須磨は、畿内の地方の西はしにあたります。そこで、交通あるいは軍事的にみて、非常に重要視されるわけです。

天智〈てんち〉天皇のころに、この須磨に関所〈せきしょ〉が置かれたといいますが、この関所は、当時、天下の三関(伊勢の鈴鹿〈すずか〉・美濃〈みの〉の不破〈ふわ〉・越前〈えちぜん〉の愛発〈あらち〉などの関所)につぐたいせつなものでした。この須磨の関は、奈良時代の終りに歴史の中からすがたを消しています。しかし平安時代の歌人たちは、よくこの関をなつかしんで歌をよみました。中でも有名なのが、百人一首で親しまれている源兼昌〈みなもとのかねまさ〉の、淡路島かよう千鳥の鳴く声に いく夜ねざめぬ須磨の関守の歌です。

さて、関所のあった場所はどこだったのでしょう。山陽電鉄須磨駅の北の台地の上に、関守稲荷〈せきもりいなり〉という神社があります。兼昌の歌の碑もその境内〈けいだい〉にありますが、むかしは、この神社の地が関所のあとだと考えられておりました。しかし。また一説には、千守〈ちもり〉川の東岸、現光寺〈げんこうじ〉のある所がそうだという説もあります。千守川は離宮公園の西から須磨寺の南をとおって現光寺の西をとおる道路の下に、今では暗渠〈あんきょ〉になって流れていますが、その近くから掘り出された石碑には、「川東左右関屋跡〈あと〉」と刻まれていました。この碑は、今では山陽電車のガードの南に立っていますが、そのあたりには、「ヤグラ」など古い地名もあって、このあたりが、須磨の関のあとだともいわれるのです。

また一説には、須磨の関は多井畑にあったともいいます。それは、古い山陽道〈さんようどう〉が須磨から山に入って、櫛淵〈くしぶち〉とよばれた交通困難な須磨浦のけわしい海岸をさけて、多井畑をとおって塩屋へと通じていたと考えられるからです。多井畑には「セキスエ(関末)」という地名も見つかっています。

 

はるかむかしに、関所はなくなってしまいましたが、今でも須磨が、交通の要地であることには変わりがありません。
きょうも、国鉄と山陽電車が、そして国道には自動車が、ひっきりなしに海と山のせまった須磨の浦をゆききしています。

『西摂大観』

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