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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 大手のハラキリ堂(須磨区大手町)

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更新日:2012年11月12日

大手のハラキリ堂(須磨区大手町)

「もはやさいご、腹かき切らん。」と、さすがの足利尊氏〈あしかがたかうじ〉もついに覚悟〈かくご〉を決めました。思えば、鎌倉幕府をたおして建武〈けんむ〉の新政に加わり、そののち楠木正成〈くすのきまさしげ〉らを破って、室町幕府〈むろまちばくふ〉を開いた尊氏でした。けれども足利一族の内部に争いが生じ、弟の直義〈ただよし〉と戦うことになりました。打出〈うちで〉(芦屋市)や御影〈みかげ〉(東灘区)の浜辺で直義の軍勢と戦って敗れた尊氏は、部下とともに西を退き、兵庫をとおって須磨へとのがれ、松岡城〈まつおかじょう〉に入りました。ところがこの松岡の城はせまく、うちつづいた負けいくさのせいで、全軍はすっかり意気消沈〈いきしょうちん〉しておりました。ついに尊氏も、今はこれまでと切腹〈せっぷく〉を決心しました。

部下たちと別れのさかずきをくみかわし、いよいよ腹を切ろうとした時、城門をたたく物音が、あたりにはげしくひびきわたりました。「門をおあけください、直義さまと、和議〈わぎ〉(仲なおり)ができましたぞ。」それは、尊氏が使者として、京につかわしていた命鶴丸〈みょうずるまる〉という若者の声でした。こうして、すんでのところで命びろいをした尊氏は、やがて城を出て京へと帰っていきました。

「尊氏はんが切腹しようとしたんは、このへんや。」大手勝福寺の山門の南には、今も「ハラキリ堂」という古い地名が伝えられています。そしてまた、「大手町いう名まえは、むかし、ここにあった松岡城の大手(正面)門があったところからきたもんや。」と、老人たちは話してくれます。

(『太平記』・『武庫郡誌』)

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