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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > おじいさんの昔ばなし(生田区)

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更新日:2012年6月1日

おじいさんの昔ばなし(生田区)

おじいさんの部屋には箱火鉢がおいてあり、ごとくの上には鉄のちゃびんがのっていました。
「そうやなあ。古いはなしは、いくらでもあるのだが。さあて、どれからはなそうかな。」
あついお茶を一と口すすって、おじいさんは、ぽつりぽつりとはなしだしました。

 

「子どものころには、家に女中さん(今でいうお手伝いさん)がいて、よくおんぶされて散歩にいったものですよ。そのころは、有馬道に魚の市がたっていて、『つれていってくれ。』といって、ねだっていたそうでした。女中さんは『ありまみちー。たこかいにー。』と節をつけながらうたって歩いていたのをおぼえていますよ。『相生橋たかい。した汽車とおる。』こんな文句も聞いたことがあります。旧湊川の下を、汽車が煙をはいて通っていたころのはなしです。」

「冬になると、わたしのおばあさんは、かきもちを焼くのが仕事になっていたのでしょうか。お餅をさいころのように真四角に小さく切って、火鉢で焼いてはしょう油をつけ、つけては焼きして、こんがりとこげ茶色になるまで焼くのでした。その焼いているところへいくと、焼けたかきもちをくれるのですが、その時にいろいろなはなしを聞かしてくれたものです。今の税関のあるあたりに、昔は首斬り場があって、罪人の処刑が行なわれていたそうです。その日には多くの人びとが見にいったそうで、おばあさんも見につれていってもらったことがあるということです。四角の大きな板のまん中に丸い穴があいていて、そこに首をいれて首かせをされた罪人がつれてこられて、みんなの前で打首が行なわれたそうですが、いよいよの時には、目を開けて見たことはなかったそうです。むかしは、ひどいことをしたものですね。」



「生田川から鯉川筋の間の海岸よりは、居留地になっていました。そこには運上所というのがありました。今の税関と同じ仕事をするところですが、その建物の窓にはガラスが全部はめてあって、たいへん珍しくビードロ屋敷とよんでいました。居留地にある外国人の建物は洋館で、レンガづくりの家もありました。正面には、必らずといってもよいくらい大げさなベランダをつけ、窓にはガラスを入れていました。今も、王子公園に旧ハンター邸、相楽園には旧ハッサム邸が残っていますが、北野や山本通には、それらしいものがいくつか残っています。居留地では、正午になると大砲をうったものです。もちろん空砲です。それで、正午になると大砲の音がドンと鳴るので、『ああ、ドンがなった。おひるにしょう。』などといい、また土曜日の午後は休みになるので、ドンがなったらおしまいなので、半ドンというようになった、ということです。」

「ランプにかわってガス灯がついた時などは、みんな珍しがったものです。ガス灯は街灯として、あちらこちらにつけられました。ちょうど私の家の前にガス灯がつけられ、夕方になると、はしごをかついだ人が火をつけてまわりました。夏の夜などは近くの人びとが集まってきて、思わぬ井戸端会議ならぬ、ガス灯端会議が開かれることもよくありました。やがてアーク灯が使われるようになり、それは、電気をとおすと、黒い細長い炭素棒の先と先の間のすきまから明るい光がでたものです。兵庫駅の裏口にいくと、どういうものですか、使い残りの短くなった炭素棒がたくさん捨ててあり、よく拾いにいったものです。」

このはなしは、明治の中ごろのことでしょうか。
「旧湊川があふれて、荒田から福原のあたりがすっかり砂に埋まったことがありました。その後、旧湊川は荒田から西へむかって流れるように、会下山にトンネルを掘って苅藻川に合流させてしまいました。こうして、旧湊川は水が流れないようになってしまい、そのあとはドテ(土手)といわれて、茶店や芝居小屋が建ちました。大人の人が遊びにいくのに『ドテへいこか。』などといっていました。」
「旧湊川の川幅はわりに広く、子どもたちにとっても、ちょうどよい遊び場になっていました。おおぜいの子どもたちが遊びにくると、いつの間にかドテの東と西に分れてしまいます。ドテの東には川崎町などの子ども、西には兵庫の子どもというようになってしまい、やがて、その中のガキ大将のような人から声がでて、『やれ、やれ、やってしまえ。』というと、川をはさんで土手と土手とで石を投げあう石合戦がはじまったものです。川幅が広いので、めったに石は相手の方までとどきませんが、それでも一生けんめいになげたものです。

「お正月やお祭りは、子どもたちにとって一番楽しい時です。とくにお正月は、お年玉がもらえるのでね。お年始がすむとお宮参りにいったものですが、お参りをするというよりは、多くの店がでているのでその方が目あてでいったのです。今でも縁日や何かに神社の境内にお店がでますが、まあ大体同じようなものです。子ども心に珍らしかったのは、蓄音機でした。蓄音機というのは、直径十センチあまりの黒い筒のようなものを何やらは箱の中に入れ、手でハンドルを回すのです。箱からは、お医者さんの使うゴム管のついた聴診器のようなものが二本づつでていて、お金を出すと、それを耳の穴に入れて聞かしてくれるのです。浪花節か何かをしていたのをおぼえています。」

「夏になると、学校では水練がはじまります。水練というのは今の海水浴のことです。勉強は午前中だけで、昼から汽車にのって須磨の水練場へいきます。神戸駅から鷹取駅までいくのですが、その汽車はこんな形なのです。客車の両がわに多くの入り口があって、その入り口ごとに向かいあわせの座席があり、隣の座席とは板でさかいがしてありました。ですから、隣の座席へいくには一度外へでないといけません。発車のベルがなると、車掌が入口の戸を閉めてまわりました。汽車が高架になったのはずっと後のことです。」


「きつねの出るはなしもありますよ。子どものころに、家の近くできつねのなき声を聞いたことがります。きつねはよく“ケーン、ケーン”となくといいますが、ちがいますね。かたい板と板とをたたくような“カーン、カーン”というように高い音でなきます。きつねにばかされたり、きつねにとりつかれたりした人のはなしがあります。家の近所のうどんやの息子にきつねがついた時には、その子は外に出ると、みぞをのぞきまわっていたので、これはきつねつきだということになってしまいました。さっそく、きつねおろしの祈祷をしたらなおったそうですが、そのうどんやでは、けつねうどんを売るのをやめたそうです。このはなしは、少しできすぎていますね。」
「東出町に松尾稲荷というのがあるのですが、ずっとむかし、湊川の戦いで楠木正成が討死をした時に、そのもっていたいろいろの物を埋めたあとに生えてきた松の木というのを、ここに移したという大きな松の木がありました。この木を切った時に、直接のこで引いた人が、きつねのたたりで死んでしまったというはなしも残っています。今はもう、すっかり家がたてこんで、きつねなどはいなくなってしまいました。」
おじいさんのはなしは、とめどなくつづきました。
“明治は遠くなりにけり”といわれますが、神戸にはむかしの面影がほとんどなくなってしまいました。これが新しい神戸の姿ということなのでっしょうが、何だかさびしい気もします。

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