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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 大坂夏の陣と人質(長田区)

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更新日:2012年6月1日

大坂夏の陣と人質(長田区)

慶長〈けいちょう〉十九年(一六一四年)冬、大坂(大阪)城を攻めた徳川家康は、講和〈こうわ〉(なかなおり)の条件として大坂城の本丸を残し、二の丸、三の丸などの堀〈ほり〉を埋めることにしました。こうして翌元和〈げんな〉元年正月には、大坂城のすべての堀を埋めて、城の守りをはだかにしてしまいました。そして、豊臣秀頼〈とよとみひでより〉の謀叛〈むほん〉をいいがかりとして、ふたたび大坂城を攻めたのです。これが大坂夏の陣です。このとき、領内〈りょうない〉の百姓たちが大坂方に内通〈ないつう〉して一揆〈いっき〉をおこしてはたいへんなので、あらかじめおもだった者をそれぞれの庄〈しょう〉から一人ずつ人質として取りあげ、留置場〈りゅうちじょう〉に入れました。元和元年の春、中の庄の池田村・長田村・東尻池村・西尻池村・西代村の代表として池田村の三郎兵衛のむすこ、平三郎が人質にえらばれました。平三郎は三月九日から五月十二日まで姫路城に留置されていたといいます。大坂城が落ちたのは五月七日のことでした。

このいきさつを伝える史料が今も残っていますので、あげておきます。

一、慶長〈けいちょう〉の年間に、大坂(大阪)の秀頼様が御謀叛〈ごむほん〉をおこされるという噂〈うわさ〉があるので、このふきんの百姓どもがもし一揆をおこしたならばたいへんであると、家康様から百姓どもを押えるように播州〈ばんしゅう〉姫路城の城主池田武蔵守〈むさしのかみ〉様へおおせつけられて、摂州〈せっしゅう〉矢田部郡において一つの庄から頭分〈かしらぶん〉の百姓をひとりあて人質に取り上げるようになったことが村村へ申し渡されました。
一、福原〈ふくはら〉の庄からは、平野村の太郎左衛門の娘を出しました。
一、中の庄からは、池田村の三郎兵衛のせがれ、平三郎を出しました。
一、下の庄からは、野田村の清雲のせがれを出しました。
一、井戸の庄からは、西須磨村の前田与右衛門〈よえもん〉を出させました。
一、山田庄からは、平野村の津田覚林〈かくりん〉が出ました。
以上五人の人質は、元和元年三月九日に姫路に召し〈めし〉寄せられ、城中でさし置かれておりましたが、家康が勝ち、同五月七日に大坂城が落城しましたので、五月十二日にこの五人の人質は返えされました。そのとき中之庄の四か村から手形(証文)を出して、三郎兵衛方に約束したことを伝えています。

このたび大坂の秀頼様御謀叛の由について、矢田部郡内から一か庄につき一人の人質を出すように御公儀〈ごこうぎ〉からおおせ出だされました。

 

中の庄で人質に誰を出すか相談いたしましたがらちがあかず、池田村はむかしから親郷〈おやざと〉であるから、池田三郎兵衛殿にこのたびのことは中の庄の名代〈みょうだい〉に出てくださるように指図〈さしず〉いたしましたら、早速にききわけてくださって三郎兵衛殿の子息平三郎殿を人質にお出しくださいまして播州姫路の池田武蔵守殿へお渡しくださいました。このようなことは庄内でも前代未聞〈ぜんだいみもん〉で例のないことでございます。庄中においてかたじけなく存じております。これから以後は池田三郎兵衛殿の子孫末代まで、なにごとでも指図なされましても違反するようなことはございません。
御礼のために、一札をこのようにかきしたためました。以上

元和元乙卯〈おつぼう〉年五月十六日

長田村庄屋 甚兵衛 印
年寄 甚右衛門 印
同 新五郎禰宜 印
東尻池村庄屋 三郎左衛門 印
年寄 中右衛門 印
同 四郎右衛門 印
西尻池村庄屋 四郎兵衛 印
年寄 孫左衛門 印
同 太郎兵衛 印
西代村庄屋 平右衛門 印
年寄 甚兵衛 印

池田三郎兵衛殿

この史料によって、家康が元和元年三月には、すでに大坂城を攻めるつもりであったことがわかります。また、そのころの百姓の押えつけられた生活をよみとることができます。

『長田の懐古』

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