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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 坊〈ぼう〉とついている旅館(兵庫区有馬町)

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更新日:2012年11月12日

坊〈ぼう〉とついている旅館(兵庫区有馬町)

有馬〈ありま〉には、坊〈ぼう〉とついている旅館が多いのです。たとえば御所〈ごしょ〉ノ坊とか中〈なか〉ノ坊・奥〈おく〉ノ坊などというのがそれです。これについては、むかしからつぎのようなことが伝えられています。

それは今からおよそ八百七十年ほどのむかし、承徳〈じょうとく〉元年(一〇九七年)の夏のことです。大雨が長い間、降りつづき、そのため有馬に大水がでて、川はあふれ山はくずれて温泉も家もみんな泥にうずまってしまいました。
そうしてそのままになっていたのですが、それから九十四年の後の、建久〈けんきゅう〉二年(一一九一年)のことです。大和〈やまと〉(奈良県)の吉野郡川上村に、仁西〈じんざい〉というお坊さんがいました。ある夜、寝ていますと、紀州(和歌山県)の熊野権現〈くまのごんげん〉さまが夢のなかに現われ、
「仁西よ、お前も知っているだろう。有馬温泉はいま、泥のなかに埋まったままになっている。ところがこの温泉は昔から、天皇さまをはじめ大ぜいの病人たちが病気をなおすためにきていた温泉だ。だからこの後も、病人のためにこのままにしておくことはできない。お前はすぐに有馬にいって、もとのように温泉が出るようにせよ。有馬まではクモ(蜘蛛)が案内するであろう。」といわれました。

あくる朝、仁西が目をさましますと、玄関に一匹のクモが糸をひいてたれさがっていました。
これをみた仁西〈じんざい〉は、すぐさま旅の支度をして外へでますと、クモはぴょんぴょんはねながら西の方へ進んでいきます。そこで仁西はこのクモにしたがって、山をこえ、川を渡りながら有馬の入り口まできました。するとクモはすーっと消え、かわって、長い白いひげをたらした老人が現われました。そうして仁西にむかい、
「遠い所まで、よく辛抱〈しんぼう〉してきてくれた。これから先は、わしが案内しよう。」
といってすたすたと歩きかけました。そこで仁西は老人にしたがって有馬に入りますと、老人は落葉山という山へのぼりました。この山は今も、緑の松が美しく茂っています。

山上につきますと、老人は仁西に、
「よいか仁西、ここから木の葉をちぎって、下へ投げるのだ。その落ちた所に、温泉が埋まっている。では仁西たのんだぞ。」
というと、老人は煙のように消えてしまいました。そこで仁西は、いわれたとおり木の葉をちぎって投げますと、木の葉は風にのってひらひらと谷の方へ落ちていきました。これをみた仁西はすぐさま追いかけますと、木の葉はふもとの草むらの中へ落ちました。さっそく、そこを手で掘りますと、湯けむりをあげて、どっと温泉がふき出てきました。これをみた仁西は、わたしをここまで案内してくれた、あのクモや白髪の老人は、きっと熊野権現の神さまにちがいないと思って、すぐに紀州の方をむき、両手をあわせて涙を流しながら、お礼を申しあげました。

それから仁西は、すぐに大ぜいの大工さんをやとって、この温泉の入浴場をたてましたが、むかし行基〈ぎょうき〉さまという名高いお坊さんがたてられた温泉寺〈おんせんじ〉というお寺が、承徳元年の大水によって流されたことを聞き、その浴場の近くにこのお寺をつくりました。
そうしてまた、お寺におまいりする人や病気で温泉にきている人たちのために、お寺のそばに、寝泊りする家(これを宿坊〈しゅくぼう〉といいます)をたてて大ぜいの人の便利をはかりました。
ところがその後、この宿坊に泊る人がだんだんふえてきたので、つぎつぎとこれをたて、ついに十二の宿坊となりました。そうして有馬では、これを、十二坊とよび、それぞれの宿坊には、何何坊というように、坊の名がつけられました、これが今日〈こんにち〉、有馬の温泉旅館に、坊と名のつくはじまりだといわれています。

ところで現在、仁西は、行基さまとともに、その温泉寺にまつられていますが、毎年お正月になると、有馬では二人の木像をおまつりして、盛大な入初〈いりぞ〉め式が行なわれ、その徳をたたえているのであります。

(『有馬湯治記』・『摂津名所図会』)

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