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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 松のきらいな神さま(生田区)

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更新日:2012年6月1日

松のきらいな神さま(生田区)

生田〈いくた〉神社は、はじめ布引の砂子山〈いさごやま〉というところにまつられていました。
ある年、大雨がつづき、とうとう大洪水〈こうずい〉になってしまいました。土砂はくずれ、松の木は根こそぎ洗い流されて、神社の建物は押し流されそうになりました。砂子山は松がたくさんはえていたので、洪水には強いと考えられていたのです。

そのとき、神主〈かんぬし〉の刀七太夫〈とねのひちだゆう〉という人が神さまを背負って、ふもとへのがれていきました。
洪水はものすごく、にごった水の中を現在の土地までたどりつくと、もう一歩もあるけません。
これは、きっと神さまはここにまつれというおぼしめしだと感じて、社〈やしろ〉をたて神さまをおまつりしました。これがいまの神社だといわれています。そんなことから生田の神さまは、「松の木はたのみにならぬもの」とおきらいになったといい伝えられています。

そのため、生田神社の森には松の木は一本もなく、クスノキばかりです。境内〈けいだい〉にもとあった能舞台〈のうぶたい〉の背景となる鏡板〈かがみいた〉にも、お定まりの松ではなく、杉の絵がかいてあったといわれています。
ことにかわっているのは、正月にも松飾〈まつかざ〉りはしないで杉飾りをすることです。それは、本殿の正面に杉の枝をたばねて山のように盛りあげ、その上にすすきを五方に出します。それから、十二本のしめ縄〈なわ〉を張りわたすのです。もし、閏年〈うるうどし〉ならしめ縄を十三本にするのです。神社としては珍しい風物です。
これは一月十五日のどんどの日に、取りのぞいて焼いてしまうのです。
平城〈へいじょう〉天皇の大同〈だいどう〉元年(八○六年)に朝廷〈ちょうてい〉から生田神社へ四十四戸と、長田神社へ四十一戸の神戸〈かんべ〉をつけられました。
神戸〈かんべ〉というのは、大むかしに朝廷から名のある古い神社に付属〈ふぞく〉されて、税〈ぜい〉(租〈そ〉・庸〈よう〉・調〈ちょう〉といわれる現物や労役のこと)をその神社におさめる封戸〈ふこ〉(税をおさめる家)のことで、その税で、神社の修理やおまつり、神主の手当てなどをしていました。それらの封戸を神戸といったのです。これがいまの「神戸〈こうべ〉」の地名になったということです。

『西摂大観』

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