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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > ハラキリ(神戸事件)(生田区)

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更新日:2012年10月15日

ハラキリ(神戸事件)(生田区)

神戸には、一から八まで数字であらわされている神社があります。つまり、一宮〈いちのみや〉神社からはじまって八宮〈はちのみや〉神社まであるのです。このような名前の神社は、全国にいくつもありますが、まとまって現在まで残っているのは珍〈めず〉らしいものです。これらは、生田神社に属〈ぞく〉する村社〈そんしゃ〉ということですが、七宮〈ひちのみや〉神社だけ県社〈けんしゃ〉となっています。神戸事件は、この中の三宮〈さんのみや〉神社の近くで起りました。

今から、百年あまりむかしのなはしです。それは、慶応〈けいおう〉四年(一八六八年)一月十一日(今の暦〈こよみ〉では二月四日)のできごとです。
備前〈びぜん〉岡山藩の武士たち三百人あまりが、山陽道を東へ向かって進み、三宮神社のあたりまできた時のことです。冬の風は、冷たく吹いていました。まわりはほとんど田んぼで、麦がわずかに芽を出しているだけで、土はだもこおっているようでした。左手には山山が連〈つら〉なり、右手には外国人の居留地〈きょりゅうち〉の工事が進められており、そのむこうは海岸で、冬の海は鉛色〈なまりいろ〉に光っていました。そして、海岸近くには、外国の軍艦〈ぐんかん〉が数隻〈すうせき〉いかりを降ろしていました。

備前藩の武士たちにとって、外国船は珍らしく、まして外国人水兵の姿が近くに見えると、すっかり緊張〈きんちょう〉してしまいました。
それもそのはずです。今は、世の中がすっかり変わろうとしているのです。江戸幕府〈ばくふ〉の十五代将軍徳川慶喜〈とくがわよしのぶ〉は、すでに大政〈たいせい〉を朝廷〈ちょうてい〉に奉還〈ほうかん〉し、十五才半〈なか〉ばの明治天皇を中心にした新政府が生れたところでした。しかし、一月三日には旧幕府がわと新政府がわとの間で、京都の近くの鳥羽・伏見で戦いが行なわれ、旧幕府がわは負けてしまったのです。このような時に、新政府がわの備前岡山藩は、西宮をまもることを命令され、道を急いでいたところでした。

家老〈かろう〉日置帯刀〈ひきたてわき〉のひきいるこの一行は、十日の夜は明石の宿に泊〈と〉まりました。十一日は朝早く出発し須磨をとおって兵庫の町にはいり、新在家にある網屋〈あみや〉新九郎の屋敷で昼食にしたのでした。昼食をすまし、休む間もなく出発しました。旧湊川をこえると神戸です。神戸開港のため、港を中心にして東と西に関門〈かんもん〉がもうけられました。その西関門は、いまの三越〈みつこし〉のあたりにありました。西関門の番所〈ばんしょ〉の前をとおりすぎ、三宮神社の前にさしかかったのは、ちょうど午後二時ごろでした。先頭は、小さな野砲〈やほう〉を三門ひいた第一砲兵隊で、第二砲兵隊・第三砲兵隊とつづいているのです。冬の日は短い。日の暮れるまでには西宮へ着かねばと、急ぎ足に歩いている武士たちの隊列を、外国人水兵たちが、もの珍らしく見物にきているのでした。
と、二人のフランス水兵が、第一砲兵隊の隊列の前を、山手か浜がわへ横断しようとしました。
このことは供先〈ともさき〉を横切るといって、それまでの習慣からいえば、斬〈き〉り捨〈す〉てにされてもよいくらい無礼な行ないなのです。以前に、神奈川〈かながわ〉(今の横浜)の生麦〈なまむぎ〉村で同じようなことからイギリス人が殺され、大問題になったことがあるのですが、この水兵たちは、そのことを知らなかったのでしょう。
「よれっ、よれっ、よらぬかっ。」
先頭の武士は大声をあげ、手で合図〈あいず〉をしましたが、水兵たちには通じません。後ろから通訳〈つうやく〉があわててかけつけて水兵たちに説明すると、納得〈なっとく〉して横断はやめました。
ところが、ぎゃくの浜がわからアメリカ兵が横切ろうとしました。
「よれっ、よれっ。」
手で合図をし大声でさけびましたが、アメリカ兵にも通じません。アメリカ兵は、その声に答えるように何か大声でどなりながら、それでも第二砲兵隊と第三砲兵隊との間のあいたところを、むりやりに走りぬけたのでした。この第三砲兵隊の隊長が滝善三郎〈たきぜんざぶろう〉で、隊の先頭を進んでいたのでした。
「待て。無礼者!」
「なにをするかっ!」
数人の武士たちが、とっさに追いかけていきました。ちょうどその時、道ばたにいた一人のイギリス水兵は、顔色のかわっている武士たちのようすをみて、思わず民家のかげにかくれ、腰のピストルをぬいてかまえたのです。
「おのれ。」
ピストルをみて、一瞬ひるんだ武士たちに、
「斬〈き〉れ。斬れ。斬って捨てい!」
という命令がだされたのです。
「おのれ。無礼者!」
「こやつ!」
それぞれに声をだし、刀をぬき、槍〈やり〉のさやをはらってつっこんでいきました。イギリス水兵は、これはたいへんと思ったのでしょう。いきなり逃げだしました。しかし、突〈つ〉きだした槍先がイギリス水兵の腰のあたりにささりました。大声をあげたイギリス水兵は、とっさに民家の中にかくれ、裏口〈うらぐち〉からでて隊列のずっと先をまわって、海岸の方へ走って逃げていきます。先頭の第一砲兵隊の武士たちも、後ろで何事かが起っているのに気がついていましたので、どうすればよいかがわからぬままに、逃げていくその背に向かって鉄砲をうちました。
しかし、無礼者も逃げたので、隊列はまた元のとおりにととのえられ、生田川の土手に向かって進んでいきます。
これが神戸事件のはじまりなのですが、備前藩にとって大事件になるとは思ってもみなかったのでした。

こちらは、逃げて帰ったイギリス水兵です。野原のような居留地をころがるように走り、イギリス仮領事館〈かりりょうじかん〉へかけこみました。領事館といっても、これは勝海舟〈かつかいしゅう〉がつくった旧海軍操練所〈そうれんじょ〉(いまの神戸商工会議所のあたりにあった)を、イギリス公使のハリー・パークスが仮〈かり〉の領事館としたものでした。パークスは、すぐに沖に泊っている各国の軍艦に信号を送らせたので、たちまち武装した水兵たちが、カッターに乗って上陸してきました。そして、進んでいく備前藩の武士たちを追いかけていきました。
生田川が居留地の東端になっていました。外国兵たちは、川の土手に列をしいて、備前藩めがけて鉄砲をうちかけました。無礼者を追いはらって事〈こと〉はすんだと考えていた備前藩にとって、これはたいへんなことになったと思ったのでしょう。それでも畑へかけこみ、土手のかげから鉄砲をうちかえしました。しかし、どうするのが一番よいかがわかりません。とにかく、相手はうるさい外国兵なのです。
「ひけ、ひけ!」
という声がかかりました。こんなことにかかわりあっていてはたいへんという気持ちだった武士たちは、その声を聞いて全員布引〈ぬのびき〉の谷へ逃げこんでしまいました。ひいていた三門の野砲は、生田川の土手においたままになってしまいました。布引からは、少し以前に作られた徳川道をかくれながら走りぬけ、山あいを通って打出〈うちで〉にたどりついた時は、みんなへとへとになっていました。
外国兵たちは、あまり深追〈ふかお〉いはせず、神戸の海岸にある居留地を守るためにそのまわりを占領し、東西の関門では厳重〈げんじゅう〉な警戒〈けいかい〉をして日本人の通行を禁止し、とくに東関門には、強い軍隊をおきました。それは、このようなことがまた起ってはいけないと思ったのです。いや、それよりも、もっと大事なことをねらっていたのです。明治の新政府の力を知りたかったし、新政府といろいろな交渉もしたかったのです。

ちょうどこの日、伊藤俊介〈いとうしゅんすけ〉(博文〈ひろぶみ〉)がイギリス軍艦に乗せてもらって、神戸についたところでした。伊藤俊介は、神戸事件がかたずいた後、間もなく兵庫県知事に任命されるのですが、この時にはまだ役にはついていませんでした。神戸についた伊藤俊介は、この事件のあとかたづけをするよう、新政府に命令されました。時に二十八才のことです。
外国がわの要求は、以後このような事件が起らないように新政府が責任をもち、外国人にむけて鉄砲をうった備前藩の指揮官〈しきかん〉を死罪〈しざい〉にせよ、というものでした。備前藩としての行ないは、武士として無理からぬことであるのは、よくわかっている新政府なのですが、この交渉の結果は、新政府の力があるかないかをしめすものなのです。ですから新政府としては、外国がわの要求をうけいれて、新政府の命令で日本が動くこと、つまり、新政府に力のあることをしめそうと思いました。
そうなると、誰かが責任者ということで、犠牲〈ぎせい〉にならなければなりません。備前藩は困ってしまいました。結局、第三砲兵隊の隊長であった滝善三郎正信〈たきぜんざぶろうまさのぶ〉が割腹〈かっぷく〉することになりました。それは、二月九日の夜、兵庫・南仲町の永福寺〈えいふくじ〉で、ときまりました。永福寺は戦災で昭和二十年に焼けてしまい、その後は復興していません。それで、地元の人びとの力もあって、少しはなれたところにある能福寺〈のうふくじ〉にその碑〈ひ〉をうつし、今もおまつりをしています。


きのう見し夢は今さらひきかえて
神戸が浦に名をやあげなむ


これは、滝善三郎の最期にのこしたうたです。永福寺の本堂で、外国人七人、日本がわの立ち合い人七人が見守る中で、夜の十一時すぎ武士の作法〈さほう〉にのっとってみごとな切腹〈せっぷく〉をとげたのでした。こうして、滝善三郎の生涯〈しょうがい〉はおわりました。時に三十二才でした。
外国人にとって、切腹を見たのははじめてです。ろうそくのうす暗いあかりの下での切腹は、すさまじいものだったのでしょう。
「おお、ハラキリ。」
と、さけんで、気を失いかけた人もあったということです。
滝善三郎の死によって神戸事件はおわりになりましたが、それは同時に、新政府の力をしめすものでありました。こうして神戸は、第二の上海〈シャンハイ〉また香港〈ホンコン〉のような状態にならずにすみました。

(『神戸事件』)

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