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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 舞子〈まいこ〉の砲台〈ほうだい〉(垂水区舞子町)

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更新日:2012年10月15日

舞子〈まいこ〉の砲台〈ほうだい〉(垂水区舞子町)

舞子〈まいこ〉の浜に砲台〈ほうだい〉あとがあります。大砲をすえつけ、海をとおる外国の船を撃〈う〉ち沈めようとしたわけですから、ぶっそうな時代のお話です。
いまも舞子公園の西の浜がわの砲台あとには、「舞子砲台跡〈あと〉」という石碑〈せきひ〉が立っています。
江戸末期といいますから、今から百十年あまり前のことです。そのころは国内に大きな革命のあらしが吹きまくりました。三百年つづいた徳川幕府をたおして、天皇に政治をかえせという意見の人たちや、幕府をもっと強力なものにしようという考え方の人たちが、国内のあちこちで、さかんに衝突〈しょうとつ〉をくりかえしておりました。

もうひとつ、ややこしいことが起こりました。徳川幕府は、鎖国〈さこく〉といって、外国との交際〈こうさい〉を長い間させませんでしたが、これがだんだんむずかしくなってきました。というのは、外国がさかんに日本の国におしかけてきて、交際しようと迫ってきたからです。国内にもまた、外国と交際しなければ世界にとり残されると考える人たちが、わんさと出てきたからです。
このため国中は、ハチの巣をつついたように、さわがしくなってきました。その上、幕府はお金に困っておりましたから、国内をしずめる力が弱くなって、このさわぎをしずめることがとてもできなくなってしまったのです。
舞子の砲台は、ちょうどそのころ造られました。幕府が、明石藩にいいつけてここに大砲をすえつけ、あやしい外国船がとおれば、撃ち沈めるように命じたのです。
そのころ、明石藩の砲術〈ほうじゅつ〉の指導をしていた荻野〈おぎの〉六兵衛という人は、なかなか熱心な人だったらしく、今の明舞団地の狩口台の近くに「矢場〈やば〉」(実弾射撃場)をこしらえて、大砲の撃ち方を教えたといわれています。

文久〈ぶんきゅう〉二年(一八六二年、幕府がたおれる六年前)に砲台ができあがりました。元治〈げんじ〉元年(一八六四年)の八月、ちょうど砲台先の海を、大阪の方に向かう三本マストの軍艦〈ぐんかん〉がとおるのを見つけた砲台守は、この軍艦を撃てと命令しました。そのころの砲弾〈ほうだん〉は鉛〈なまり〉のかたまりで、目方がなんと八キロもあったといわれています。
舞子砲台は火を吹き、立てつづけに三、四発の鉛玉を撃ち放ちました。そのうちの一発が船腹に命中、他の一発は中心マストに命中しました。
ところがこの軍艦は、長州藩(山口県)が新しく造った軍艦で、ちょうど大阪にきていた長州藩の藩主毛利公を迎えにいくところであったのです。いわば味方の軍艦を撃ったわけです。明石城には連絡〈れんらく〉が届いていたので、長州藩の船は安心してとおっていたわけでした。連絡を受けた明石藩が、舞子砲台にいうのを忘れていたための失敗でした。
長州藩も事件後すぐに調査のために明石藩までやってきましたが、事情を知ってあやまちをゆるし、かえって荻野の砲術をほめたということです。

こういう話を知って、「舞子砲台跡」に立ってみると、あの幕末の日本、夜明け前の日本の姿が、また、ひとしお身近かに感じられるのです。

(『西摂大観』)

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