• お問い合わせ
  • 文字サイズ・色合いの変更
  • サイトマップ
  • 携帯サイト

メニュー

ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 一の谷の合戦(須磨区一の谷町)

ここから本文です。

更新日:2012年6月1日

一の谷の合戦(須磨区一の谷町)

須磨浦のロープウェイのある鉢伏山〈はちぶせやま〉(二四五・七メートル)と、新しい宅地の開かれた高倉山〈たかくらやま〉(二九一・五メートル)との間の山を、鉄拐山〈てっかいざん〉(二三七・三メートル)といいます。むかしむかし、ふもとの里に、すごく力持ちの木こりがいました。木こりは重い鉄のつえを肩にかついで山に入り、それをふりまわしては、たきぎを取っていました。人びとはその木こりの入る山を鉄拐山と名づけたのです。
源義経〈みなもとのよしつね〉の有名な一の谷の逆落〈さかおとし〉の場所が、この鉄拐山の南のガケだと伝えられています。平清盛〈たいらのきよもり〉の死から三年もたつと、平家一門は源氏の勢いにおされて都をおわれ、西国へと落ちていきました。しかしまもなく勢力をばん回して、京にのぼろうと、水軍を兵庫へと進めてきました。そこで後白河〈ごしらかわ〉法皇の命をうけた範頼〈のりより〉・義経の兄弟が、平家をむかえうとうと、兵庫めざしてくだってきました。兵庫に上陸した平家方は、東のまもりを生田の森、西のまもりを一の谷におきました。鉄拐山の南に、南北に走る三つの谷を、東から順に一の谷、二の谷、三の谷とよびますが、その一の谷にとりでを築いたのです。

こうして一の谷には平家の赤い旗〈はた〉が一面にひるがえったため、この谷の上流を赤旗〈あかはた〉の谷とよびつたえています。寿永〈じゅえい〉三年(一一八四年)二月七日、西方、明石方面からくる敵を一心にけいかいしていた平家の武士たちは、とつじょ、後ろの山からなだれおちてくる軍勢に気づいて、どぎもをぬかれました。白い旗じるしの、義経にひきいられた源氏の軍勢でした。こうして一の谷に源氏と平家のさむらいたちが、源氏の白旗と平家の赤旗をいりまじえて激戦をくりひろげたのです。この時から、このあたりの山はだには、赤と白のつつじが、いりみだれてさくようになり、人びとはそれを「源平〈げんぺい〉つつじのさきわけ」といったということです。
戦いに敗れた平家の人びとは、船で四国の屋島〈やしま〉へとのがれていきましたが、船に乗りおくれた若い平家の公達〈きんだち〉が、波うちぎわで馬にまたがっていました。当時十七才の敦盛〈あつもり〉です。と、その時、大きな声がきこえました。この敦盛をみつけた熊谷直実〈くまがいなおざね〉が、勝負をいどんでいるのです。年わかい美少年の敦盛が、勇ましい武者〈むしゃ〉の直実に勝てるはずもありません。組みふせて首かき切ろうと敦盛のかぶとをぬがせた直実は、まだおさなさの残ったやさしい敦盛の顔をみて、ふと同じ年ごろの息子〈むすこ〉のことを心に浮かべました。直実は敦盛をたすけようとします。だがその時、源氏の武士たちが近づいてきます。意を決して首を切った直実は、戦いののちに出家〈しゅっけ〉して、敦盛のめい福をいのりました。

後世の人が、この敦盛の供養〈くよう〉のために建てたのが、今も須磨浦公園駅の西、もとの三の谷に残る敦盛塚〈あつもりづか〉です。また笛の名人だった敦盛の愛した物という「青葉〈あおば〉の笛」というのが、須磨寺に伝わっています。敦盛が少年だったため、敦盛塚には子どもの病気をなおしてもらおうと、おまいりする人がたくさんありました。そして病気をなおしてもらった人は、竹にいくつか穴〈あな〉をあけて紙をまき、水引〈みずひき〉をかけて、青葉の笛に似せ〈にせ〉たお礼〈れい〉をそなえたそうです。
ところで、須磨寺の西に「小屋〈こや〉ヶ谷」という谷がありますが、そこは、一の谷の合戦の時の須磨の里人〈さとびと〉が戦乱から避難〈ひなん〉したところだと伝えられています。また毎年、二月七日の夜には一の谷のあたりに、人馬〈じんば〉のざわめく物音が聞こえるといういい伝えがあります。

(『平家物語』・『武庫郡誌』)

お問い合わせ

情報管理部広報係

電話番号:078-331-9962

ファクス番号:078-331-8022