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更新日:2012年6月1日

菅公橋(垂水区)

菅公〈かんこう〉というのは、菅原道真〈すがはらみちざね〉をさします。菅原道真という人は平安時代の偉い学者で、そのころは右大臣という高い位についていました。後に九州に流されてしまいます。流されるといっても、罪人がはなれ島へ流されるのとはちがって、都から遠くはなれた土地の役人になって、いわば格下げされていくことです。

東風〈こち〉吹かば匂いよこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
歌の意味は東風が吹く春がやってくれば、きっといちはやく、かおり高い梅の花を咲かせておくれ。そのにおいを九州までとどけておくれ。わたしがここにいないからといって、春を忘れてはなりませんよ。
愛する梅の木に別れの歌を残して九州へ旅立つ話はあまりにも有名です。

この道真公が、九州へたどりつくまでに、道みち立ち寄ったとみえ、いたるところに菅公のいわれが残っております。

道真公は、はじめ大阪から船出して、瀬戸内海をいくつもりでありましたが、途中神戸の沖であらしにあい、兵庫の和田岬にのがれてきたといわれています。そこから船をすて、陸路にきりかえ山陽道を西に進みました。

だいたい今の国道二号線ぞいに西下していったと考えていいでしょう。須磨の天神町に、国道二号線が、国鉄線路をまたいでいる天神橋という名まえの陸橋があります。橋のすぐ北がわに、綱敷〈つなしき〉天満宮という古いお宮さんがありまして、ここも、菅原道真にゆかりの深いお社です。

なんでも、この天神さんのあたりまでは、海で砂浜がつづいていたようです。菅原道真は、ちょうどここをとおりかかり、漁師の綱の上に腰をかけて、しばらく休まれたというのです。そこでこのお社が、綱敷天満宮となったといわれています。

道真公は、えらい学者であったので、道真公をおまつりした天神さんは、たいてい知恵の神様ということで、受験の前には、学生などがたくさんお参りするのだそうです。おもしろいことに、天神さんには、かならずといっていいほど、牛がついています。牛に乗っている神様といえば、天神さんのことです。そのころは、牛が陸の乗り物になっていたからでしょう。

国道二号線をさらに二キロほど西へ進みますと、塩屋町へつきますが、この塩屋の入り口のところで、国道が、ふたたび鉄道線路をまたぎます。ここの陸橋には、菅公〈かんこう〉橋という名がついています。

そのころは、須磨浦公園のあたりは山が海にせまっていて、とても海岸づたいには通行ができませんでした。もちろん道などはなかったようです。ここにいまでも境川という川が流れていますが、ここが摂津〈せっつ〉の国と播磨〈はりま〉の国の国境〈くにざかい〉になっていました。境浜海水浴場という名まえがありますが、それも国境いになっていたからです。

では古い山陽道は、どこを通っていたのでしょう。須磨の天神さんのあたりから、一度北へのぼって、多井畑のあたりまでいき、ちょうど、鉢伏山をぐるっとまわったようなかたちで、ふたたび塩屋の方へ出てきたと考えられています。塩屋の菅公橋というのも、菅原道真にゆかりのある地名からつけられた名まえですから、きっと、このあたりで、ふたたび海岸ぞいの山陽道になったのでしょう。

ちょうどこのころ宇多〈うだ〉天皇の時代に、越前守藤原高房〈えちぜんのかみふじわらのたかふさ〉という武将が、いまの福井県から防人〈さきもり〉として九州へ出かけていくため、大阪から船出して、垂水の海岸で一休みしておりました。防人というのは、九州を守るため、各地の人たちが、天皇の命令で、三年間九州を守る役目につくことです。

その時、漁師が、一匹の海亀をいじめているのが目にとまりました。高房は、その亀があわれに思えましたので、お金を出して漁師から亀を買いとりました。そうしてねんごろにいたわり、お酒をのませて海へ逃がしてやったのです。
高房が、ふたたび船で沖に出ましたところ、ちょうど、女の人が子どもを海につき落としているのが見えました。高房は、家来に命じて助けようとあせりましたが、ふと、高房の後ろの方から、子どもの泣き声がきこえてきましたので、ふりかえりました。

するとどうでしょう。
浜で逃がしてやった先ほどの海亀が、背中に子どもをのせて、高房の船べりに近寄ってくるではありませんか。
亀の行ないに感じ入った高房は、九州の役目がすんで帰る途中、ふたたび垂水の海岸に立ち寄って、ここで、流木をひろって観音像をほったといわれています。

『垂水の史跡』

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