ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 松風〈まつかぜ〉と村雨〈むらさめ〉(須磨区)
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更新日:2012年12月31日
須磨の離宮公園正門から南に走る離宮道が、山陽電車とまじわる東がわに、松風村雨堂〈まつかぜむらさめどう〉というのがあります。これは在原行平〈ありはらのゆきひら〉の旧跡〈きゅうせき〉だと伝えられています。
在原行平は、美女として名だかい小野小町〈おののこまち〉にたいして、美男子の代表といわれる在原業平〈ありはらのなりひら〉のお兄さんです。今から千年ほど前、ふとした事件で時の光孝〈こうこう〉天皇のいかりにふれた行平は、三年間この須磨でわび住まいをしたといわれています。月の名所、松の名所として知られてはいましたけれども、そのころの須磨は草ぶかいいなかでしたから、都からきた行平はとても京のまちをなつかしがりました。
わくらばに問う人あらば須磨の浦に もしほたれつつわぶと答えよ
と、古今集〈こきんしゅう〉の中で行平は歌っています。
毎日毎日、月を見たり海に行ったりしてくらしていた行平は、ある日、ふと浜辺〈はまべ〉を歩く二人の里の娘にであいました。
「名は何というのか。」「白波白波〈しらなみしらなみ〉(しらない、しらない。)」
といいあっている時、サッと一じんの風が松林をふきぬけ、パラパラとにわか雨がふりました。
「そなたたち二人の名、松風〈まつかぜ〉、村雨〈むらさめ〉、とよぶことにしよう。」
行平はこういいました。この二人の娘は姉妹で、山の北がわの多井畑〈たいのはた〉の村長〈むらおさ〉の娘だったのです。この日から二人の娘は、かいがいしく行平の世話〈せわ〉をし、行平もまた二人をこよなく愛して、しあわせな日がつづきました。
しかしついに行平は許されて、京に帰る日がやってきました。娘たちがあまりに悲しむので、行平は二人が浜辺に出ている間に、都にむかって旅立ちました。
松風と村雨が帰ってくると、松の木の枝に行平の烏帽子〈えぼし〉(かんむり)と狩衣〈かりぎぬ〉(きもの)が残されていました。二人は泣く泣く庵〈いおり〉をつくって、そこで恋〈こい〉しい行平の無事をいのって観音〈かんのん〉さまをまつりました。その庵のあとが松風村雨堂だといわれています。また離宮道の西に、菖蒲小路〈しょうぶこうじ〉という古い地名が残っていましたが、そこが行平のすまいしたあとだということです。月見山というのも、都を思い行平が、清らかな秋の月を見た所だとも伝えられています。
のちに、松風と村雨は、生まれ育った多井畑の里に帰って、そこで年おいて一生を終えたと人びとはいいます。多井畑には今も、松風と村雨の墓〈はか〉というのが残っているのです。
(『摂津名所図会』・『西摂大観』)
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