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更新日:2012年6月1日

雀の松原(東灘区)

大むかしのことです。
茅淳海〈ちぬのうみ〉(大阪湾)にそそぐ大きな川が、六甲の山山の間から流れ出ておりました。

ある日のことです。この川の川口近くの浜辺に、一隻〈せき〉の大きな船が送られてきました。
これは、遠く伊豆の国の役人から朝廷〈ちょうてい〉に献上〈けんじょう〉されてきた“枯野〈かれの〉”号と呼ばれる船でしたが、長い間、荒波に打たれ潮風〈しおかぜ〉に吹かれ、雨風にさらされてきたため、船べりや梶〈かじ〉や帆〈ほ〉など、あちこちがひどくいたんでいて、このままではもう使えないような状態になってしまっていました。これを見て天皇は、「うーむ、りっぱな船をもったいないことだが、これでは使えない。どうしたらいいだろう。」と考えこんでしまわれましたが、やがて何かを思いついたように、「そうだ、良い考えがある。あすの朝、この浜辺にできるだけたくさんの人を集めておけ。」と命令されました。


あくる日の朝、たくさんの男や女の働き手が海岸に集められると、さっそく仕事が始まりました。
直径〈ちょっけい〉が六尺(約1.8メートル)もあるような、大きな鉄の釜〈かま〉がいくつも運ばれてきました。水くみに使う木のおけもたくさん準備されました。集まった人たちは、それぞれ手わけして作業にかかります。
ある人は、海岸の砂浜に、大きい鉄釜をのせるための大きなかまどを作りました。ある人は、きのう着いたばかりの大きな船に向かって斧〈おの〉をふるい、解体する作業をしています。
船の材木は薪〈たきぎ〉にされて、小山のように積み上げられていきました。また別の人は、手に手におけをもって、海水を運んできては大釜の中にうつしていきます。さしもの大きい釜も、たちまち海水で一ぱいになりました。やがてかまどに薪がくべられると、火がつけられ“枯野”号の古い木材は勢いよく燃えはじめました。こうしてつぎつぎと海水を煮つめて〈につめて〉いって、ついにその日の夕方までに、大きいかごにいれて五十ぱいの塩ができ上がりました。天皇は、この塩を西日本各地の役人に分けあたえ、その代わり、船を十隻ずつ造って朝廷に献上するように命じました。


命令をうけた各地の役人は、さっそく仕事にとりかかり、夜を日についで猛〈もう〉スピードで作業を進めていきました。そしてきょうは、自分たちの船を朝廷に献納〈けんのう〉する日です。各地からここに集まった船は、全部で五百隻になりました。あまりに多くの船なので川口から近くの海岸ぞいには、無数の船がみごとに並んでいました。このことがあってから、この地方は“五百崎〈いほざき〉の浜”と呼ばれるようになりました。


このことがある前は、この地方の海岸には、枝ぶりのよい美しい松の木がたくさんあって、きれいな松原になっていました。ずっとのちの年に、住吉川の大洪水がおこり、その西がわにあった村では、人の住む家が濁流〈だくりゅう〉に流されたりつぶされたり、泥にうずまったりして村はすっかりさびれてしまいました。
それ以後人びとは川の東がわに移り住むようになりました。この地方はむかし“佐才〈ささ〉の里”と呼ばれていましたが、後に“雀〈ささ〉の里”とも書いていたので、とうとう雀〈すずめ〉の里ともいわれるようになっていました。この地方の美しい松並木を雀の松原と呼んだそうですが、今はもう松原のおもかげもなく、ただ五百崎の浜の地名だけが、今は“魚崎”という名で残っているだけです。

『摂陽群談』

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