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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』神戸編 > 二郎〈にろ〉(兵庫区有野町)

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更新日:2012年12月31日

二郎〈にろ〉(兵庫区有野町)

神戸の湊川から電車にのって三田へいく途中〈とちゅう〉、有馬口の駅をすぎるとまもなく、二郎〈にろ〉という駅をとおります。すると乗っている人のうちに、「にろ、けったいな駅の名前やなあ。」という人もあります。
二郎とは、この付近の地名ですが、つぎのようなことが伝えられているのです。

今から、およそ八百年ほどの昔、源氏と平家が戦って平家が破れ、源氏の世になってからずっと後のことです。
この土地を流れる有野〈ありの〉川の堤〈つつみ〉の上を、つづら箱を背負〈せお〉った一人の若い武士が歩いてきました。そして、川が大きく曲っているところまでくると、どっかり腰をおろして休みました。このあたりはそのころ、山のふもとまで草がぼうぼうと茂っていて、いちめんの荒野原〈あれのはら〉だったのです。すると間もなく、向こうから年とった一人のお坊さんが、杖をつきながらぼとぼと歩いてきました。お坊さんは、この若い武士をみるとそばによって、
「これお武家〈ぶけ〉、なにをしとるのじゃ。どこか身体が悪いのか。」
とたずねました。これを聞いた若い武士は、にっこり笑って、
「いいえ、どこも悪くはありません。ただ休んでいるだけです。ところでお坊さま。つかぬことをおたずねしますが、このへんはむかし、平家の能登守教経〈のとのかみのりつね〉さまのご領地であったところではありませんか。」
とたずねました。お坊さんは、
「そうじゃ。能登守さまのご領地だったところじゃ。ここから播磨〈はりま〉の国境〈さかい〉までそうだったのじゃ。能登守さまは、よくここにお越しになっていた。」
といって若い武士の顔をながめ、
「お武家は、その能登守さまと、なにかゆかりでもあるのかえ。」
とたずねました。若い武士は、
「はい、ゆかりのある者です。それでなつかしく思って、九州からはるばるとたずねてきました。」
と答えました。これを聞いたお坊さんは、
「それはそれはご苦労さまなことだ。どーれ、わしもここでひと休みしよう。」
といって若い武士のそばに腰をおろし、ぼつぼつと話しかけました。
「わしは、このさきの唐櫃〈からと〉の多聞寺〈たもんじ〉の坊主じゃ、その唐櫃にもお前さまと同じように、平家とゆかりのある人が住んでいる。ここもやっぱり、能登守さまのご領分〈りょうぶん〉だったからじゃ。ところでその能登守さまだが、お武家も知ってのとおり、なかなか勇ましい方で弓の名人じゃった。この野原にもたびたび狩〈かり〉にこられたが、どんなすばしこいうさぎ・・・きじ・・でも、弓でねらって矢をはなされると、かならず射〈い〉とめられて、しくじることなどはまったくなかった。能登守さまは、朝から晩まで、うぐいすや目白〈めじろ〉などの小鳥が美しい声でさえずっているこの草原をことのほか喜ばれ、狩〈かり〉の外のときにもたびたび馬にのってお越しなされていた。そうして、ここを小鳥が里とよばれて、できれば一生〈いっしょう〉住みたいなどとおっしゃっておられた。しかし、世はままにならぬもの、平家と源氏の戦いがはじまり、能登守さまは弓で源氏方をさんざんなやまされたが、ついに平家は敗れて長門〈ながと〉(山口県)の壇浦〈だんのうら〉へ逃〈の〉がれた。そこで能登守さまは、もはやこれまで、このうえはせめて源氏の大将源義経〈みなもとのよしつね〉を討とうとされて、弓をもち源氏方の舟から舟へとび移って追〈お〉いかけられたが、それもかなわず、とうとう討死にされてしまった。思えば能登守さまは、なかなかお偉〈え〉らい方じゃった。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。」といって目をつぶり、しばらく手をあわせていました。
そして若い武士にむかって、
「ところで、お武家は、これからどうするのじゃ。」
とたずねました。若い武士は、
「はい、その話は国でよく聞いていました。そこで、能登守さまのゆかりのある者として、ここをたずねてきたのです。能登守さまにかわってここに住もうと思ってきました。」
と答えました。お坊さんは手をふって、
「それはやめときなされ。こんな荒れはてた野原に住んで、田や畑をつくって暮そうとすることは、とんでもないことだ。それより、わしのいる唐櫃へきなされ。田畑のできる広い岡もあるし、お前さまと同じように、平家にゆかりをもつ人もおおぜいいるのだ。なにかにつけて都合〈つごう〉がよかろうからのうー。」
といいました。この武士は、両手を地面〈じめん〉につけ、
「ありがとうございます。しかし、わたくしは九州を出るときから、かたい決心をしてまいりました。どんな苦しいことに出あっても、かならず切りぬけてお目にかけます。どうかお坊さま。この後のわたくしのようすを見ていてください。そして、何とかお教えくださいますようお願いいたします。」
と、幾度〈いくど〉も頭〈あたま〉をさげてたのみました。そのようすをじっとみていたお坊さんは、
「おお、そうか。そんなにまでかたい決心をしとるのか。それなら、しっかりがんばってやりなされ。どれ、わしはかえろう。ときどき多聞寺へも遊びにきなされや。」
といってたちあがり、杖をつきながら唐櫃の方へかえっていきました。これを見送っていた若い武士は、やがて背負っているつづらから小さなお社〈やしろ〉をとり出してそばの石の上におき、ていねいにおがみました。そして、こんどは西の方をむき、手をたたいて頭をさげ、
「能登守さま、わたくしはただいまから、お殿〈との〉さまが住みたいとおおせになっていた、この小鳥が原に住むことになりました。どうぞお守りください。」
といってお願いしました。

それから後です。この若い武士は、だれもいないこの荒野原〈あれのはら〉に小屋をたて、朝夕その小さなお社や能登守さまを拝みながら、汗水ながして鍬〈くわ〉をふるいました。幾年〈いくねん〉かたつうちに、さしも荒野原であったこの小鳥が原にも、つぎつぎと稲や麦のみのる田や、青青とした野菜〈やさい〉畑ができてきました。また多聞寺〈たもんじ〉のお坊さんのはからいで、唐櫃にいる平家のゆかりの人も入ってきて、いっしょに田畑を耕〈たがや〉すようになりました。ところがその人びとが、あるときその若い武士にむかって、
「お武家さん、わたくしたちは、あなたをお武家さんとよんでいますが、ほんとうのお名まえはなんといいますか。」
とたずねました。すると、その若い武士は笑いながら、
「次郎〈じろう〉といいます。しかし、わたしの生れた村では、この次郎をニロウといっています。」
と答えました。それから後、人びとはこの若い武士を、「ニロウどの」とよぶようになりました。
そしてまた、幾年か長い年月がすぎました。この間に、次郎〈にろう〉はお嫁〈よめ〉さんをもらい、子どもも生れて大きくなりました。しかし次郎は少しもなまけず、せっせと働いていました。次郎が、白髪〈しらが〉のお爺〈じい〉さんになったころには、この土地は田畑や家がふえ、小鳥のさえずる美しい村となったのです。

ところがその後、次郎が重い病気にかかり、きょうかあすかに危〈あやう〉くなったときでした。枕元〈まくらもと〉に心配して集っているわが子や村人たちにたいして、はじめて自分の身の上をあきらかにしました。
「わたしの家は、代代平家にお仕えしていた。父は能登守さまにお気に入られ、いつもそのおそばでお勤〈つと〉めしていた。平家が源氏と戦って敗れ、壇の浦まで逃げたとき、三才になられた安徳〈あんとく〉天皇さまもごいっしょであった。いよいよ負け戦〈いくさ〉とわかったとき、おかわいそうに天皇さまは、お祖母〈ばあ〉さまの二位〈にい〉ノ局〈つぼね〉さまにだかれて海にとびこまれ、お亡くなりになった。そのようすをごらんになった能登守さまはたいへん悲しまれ、父をよんで、お前は生きのこって、おかわいそうな安徳天皇さまをおまつりして、おなぐさめ申しあげよ、と固〈かた〉くお命〈めい〉じになったのである。そうして、ご自分はむらがる源氏のなかにとびこんで、はなばなしく討死にされたが、父はおおせにしたがってすぐに壇の浦から逃げだし、九州日向〈ひゅが〉の宮崎〈みやざき〉の山奥にかくれて宮崎と名のって住んだのだ。そして、小さなお社をつくり天皇さまをおまつりして毎日おなぐさめしていたが、それが朝晩わしが拝んでいるあのお社だ。ところが父は、つね日ごろ九州にいて、天皇さまをおまつりするよりは、能登守さまが一生住みたいとおっしゃっていたこの小鳥が原にうつっておまつりしたほうが、いっそうお喜びになるだろうといって、ここへくることを考えていたのであるが、それができずとうとう死んでしまった。そこで、わしがその父の志〈こころざし〉をついでこの土地にきて住み、おまつりしていたしだいである。わしが死んだ後にも、みんなで安徳天皇さまをおまつりしてくれ。これが、わしの最期〈さいご〉のたのみじゃ。」
と涙をながしていいました。

次郎は間もなく死にましたが、人びとは村をつくった大恩人〈だいおんじん〉次郎の願〈ねが〉いであるので、すぐさま別にお社をつくって、安徳天皇さまをおまつりしたのでありました。そうして、次郎の徳をたたえて、村の名をその名のとおり次郎〈にろう〉としたのであります。

(『有馬郡誌』・『有野村誌』・『有馬郡の伝説とその背景』)

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