• お問い合わせ
  • 文字サイズ・色合いの変更
  • サイトマップ
  • 携帯サイト

メニュー

ここから本文です。

更新日:2012年6月1日

くもじ(葺合区)

今からおよそ五百年ほどむかしの話です。そのころの日本は戦国時代といって、各地にはその地方ごとに勢力をもつ強い大名がいて、あたりの弱い国をしたがえて支配していました。このような状態でしたから、天皇は位についても、なかなか日本の国を治めることはできませんでした。またそのころ、朝廷〈ちょうてい〉とは別に室町幕府があって、将軍が朝廷を助けて政治をすることになっていましたが、幕府もまた自分の思うように、日本の国を治めることはできませんでした。
ちょうどそのような時に、日本全国にわたって十年もの間、争い〈あらそい〉がつづきました。その結果、京の都〈みやこ〉もすっかり荒れはててしまい、はなやかだった都の大通りには雑草が生え茂り、だだっ広い焼け野原には、ひばりがさえずるといった景色になってしまいました。それまでは朝廷を助けていた室町幕府も、この戦いでたくさんの費用を使ってしまったので、朝廷に、貢物〈みつぎもの〉を送ることさえできなくなってしまいました。朝廷もたいへん困って、それまで宮中で行なっていた儀式や行事もできなくなり、しまいには、毎日の食べ物にも不自由するようになってしまいました。
天皇がこんなに困っていられるようすを見て、宮中につかえている女官たちは、手押車や荷台に品物をのせて町中を売り歩く行商人を宮中に呼び入れて、なるべく安い品物を買おうとするようになりました。

ちょうどそのころのことです。摂津〈せっつ〉の国の布引滝の近くでは、百姓たちは畑で大根や茎菜〈くきな〉をつくってそれを漬物〈つけもの〉にし、はるか遠く大阪から京の都の方にまで商い〈あきない〉に出かけていました。この人たちもしばしば宮中に呼ばれ、その漬物は天皇をはじめ女官たちや多くの人に食べられていました。
この旅の商人たちの中に、年老いた両親といっしょに百姓しごとをしながら、作物を売りに出て働いている親孝行な一人の青年がいました。この青年が宮中に呼ばれていった時のことです。彼がいつもふしぎに思っていたことですが、女官たちは妙なことばで自分の漬物のことを呼ぶのです。そればかりではありません。ふだんの話の中にも、聞きなれないことばがでてくるのです。それもそのはずで、相手は、今は貧しい生活をしているといっても、天皇のおそばにつかえている人たちですし、彼は毎日毎日、田畑にでて働いているのですから、ことばもちがっているのでしょう。でも、それにしても妙です。ことばの中に「…モジ」ということばが何回となく出てくるのです。

ふしぎに思った青年はある日、とうとう思い切ってたずねました。
「あなたは、私の漬物のことを何んとおっしゃいますか。私にはわかりかねるのですけれど…。」
すると女官はこたえました。
「くもじを買いたい、と申しているのです。」
「おそれいりますが、私の漬物はくきなと申します。くもじではございません。」
「いや、くきなということはわかっております。わかっておりますからこそ、くもじを買いたい、と申しておるのです。
「さて、わかりかねます。なぜに、くきなのことをくもじと申されるのでございますか。」
青年があまり真剣〈しんけん〉に聞くので、女官は笑いながら、さらにこたえて申しました。
「世が世であれば、ここ宮中へは、そうだれでもが入れるというわけではない。ところが昨今の世の中では、そのようなむかしふうの格式〈かくしき〉のことなどいってはおられません。しかし、私たちの話がおおくの世間の人に聞かれないように、私たちだけで通用する“女房〈にょうぼう〉ことば”というのがあるのです。」
「なるほど。それで、その“女房ことば”と申しますのは?」
「いたって簡単〈かんたん〉なことです。一つのことばの頭の字を一つだけとって、その後へ文字〈もじ〉ということばをつけるだけなのです。」
「と申しますと、たとえば?」
「たとえば、しゃくしのことをしゃもじ、腹がへってひだるいことをひもじいというふうにです。」
「ああ、なるほど、それで私のくきながくもじとなるわけですね。これは良いことを聞いたものです。さっそく村へ帰りましたら、このことを皆の者に話して聞かせましょう。」といって帰っていきました。

青年からこの話を聞いた村人たちはたいへん感激〈かんげき〉して、自分たちの村のことを“くもじ”の村と呼ぶことにしました。後になって、この地には熊内〈くもち〉という字があてられるようになったということです。

(『神戸の民話』)

お問い合わせ

情報管理部広報係

電話番号:078-331-9962

ファクス番号:078-331-8022