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ホーム > 学校・授業の教材 > 『郷土の民話』中播編 > 藤〈ふじ〉の前〈まえ〉の最期〈さいご〉(姫路市豊富町)

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更新日:2013年1月7日

藤〈ふじ〉の前〈まえ〉の最期〈さいご〉(姫路市豊富町)

姫路を北へ四キロメートルほどいくと、仁豊野〈にぶの〉というところがあります。ここから市川にかかった橋をわたると、豊富〈とよとみ〉町の酒井〈さかい〉という部落へ出ます。このへんはむかし、はりまの蔭山郷〈かげやまごう〉といわれたところです。

この地には、ある美しい女性がかなしい最期をとげた、いわれのある焼〈や〉け堂〈どう〉が残っています。美しい女性というのは、後醍醐帝〈ごだいごてい〉(建武〈けんむ〉の新政をされた天皇〈てんのう〉)にお仕えし、帝〈みかど〉(天皇)からも、宮中の人びとからも、大へんかわいがられ、尊敬されていた弘〈こう〉き殿〈でん〉の局〈つぼね〉で、またの名を藤〈ふじ〉の前〈まえ〉といわれていました。

その当時は、世の中があたりまえでなく、帝が隠岐島〈おきのしま〉(島根県)へ流されるということさえありました。でも、時の帝、後醍醐帝が、隠岐から脱出される時に、かげの力になった人に、出雲国〈いずものくに〉の太守〈たいしゅ〉、塩冶判官高貞〈えんやはんがんたかさだ〉という人がありました。こうしたことで、藤の前は帝のお骨折りで高貞の妻にむかえられました。

ふたりは仲よく暮らし、ふたりの子どもも生まれました。
ところが、これをねたんだのが、その当時都にいて、何でも権力によって他人をおさえつけ、身勝手、わがままばかりしていた高師直〈こうのろもなお〉という男でした。藤の前のことを、
「わたしが宮中にいたとき、おつかえした中で、日本はおろか唐〈から〉・天竺〈てんじゅく〉(中国・インド)にもない、ごりっぱでお美しい方でした。」と、高師直につげた女房〈にょうぼう〉(宮中につかえている女)がいたからです。
「そんなよい女なら、何とか都へよびかえして、自分の近くに置きたい。」
「でも、もう結婚して、ふたりの子どもまでお生みになっていますよ。」
「なに、なに、かまうものか。今のこの世で、わたしにできないことは何一つない。」そういって、高師直はつかいを出して、藤の前を都へ引きよせようとしました。しかし、決して、そんなことに気をとられたり、おそれをするような藤の前ではありません。いくら使いがきても、
「わたしは、ちゃんとした塩冶判官殿の妻、どうして都へいく必要がありましょうか。」といって、かたく断りました。そのうえ、他人の妻を横どりしょうとするいやしい心をひどくののしりました。
師直は、じっとしていません。
二百何十騎〈き〉という兵〈つわもの〉をさしむけて、藤の前と夫〈おっと〉の判官を追いつめてきました。平和な蔭山郷は、たちまち矢がとび、馬のひずめの音がし、荒くれたった戦場になってしまいました。衆寡敵〈しゅうかてき〉せずです。
藤の前は「おかあさま。」と泣き叫ぶわが子を胸に抱いたまま、大太刀〈おおたち〉のきっ先につかれて、かなしい最期をとげました。土地の民家も焼かれました。
でも、ふしぎに焼けた灰の中から、金色の小さい仏像が出てきました。
藤の前が、いつも信仰していた十一面観世音〈めんかんぜおん〉でした。それをそのまま本尊として、今も「焼け堂」が残っています。

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