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ホーム > 学校・授業の教材 > 『郷土の民話』中播編 > 巨智〈こち〉の賀那塚〈かなづか〉(夢前町)

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更新日:2012年6月1日

巨智〈こち〉の賀那塚〈かなづか〉(夢前町)

夢前町杉之内に、天御酒〈あまみき〉神社というお宮があります。杉之内、古知之庄〈こちのしょう〉、塩田の氏宮です。天御酒神社の通りの宮川橋を渡ると、「御山〈みやま〉」という丘のような小山があって、その頂上に三つの古い塚〈つか〉がありました。この塚を金塚〈かなづか〉と呼んでいました。いつのころからか、「氏子三か村に牛が三匹になるほど暮しが苦しくなったら、この塚を掘りなさい、きっとたくさんの金銀財宝〈ざいほう〉がでてきます。」と、いい伝えるようになりました。
明治四十三年(一九一〇)氏子の中から「金塚を掘ろう。」という人がでてきました。また「牛が三匹になるほど貧乏〈びんぼう〉もしていないのに、いまごろ掘ったら神罰〈しんばつ〉があたる。」とう反対論〈はんたいろん〉もでて、議論〈ぎろん〉がわきました。それでも結局吉日を選んで、氏子総出で、掘ることになりました。
その日はまだ夜も明け切らぬころから、はたらきざかりの男はいうまでもなく、老人も女、子どもも「どんな宝物が出るか。」と、小山一ぱいに集まりました。三つの古塚のうち西の塚を杉之内、中の塚を古知之庄、東の塚を塩田と、分担してほりました。その日は希望に燃えて、元気一ぱいに掘りましたが何も出ませんでした。夕ぐれになって番人だけをのこして家にかえり、翌日も早朝から掘りつづけました。古知之庄が分担して掘った穴は、直径三メートル、深さ四メートルにもなりました。杉之内や塩田も、これに近い大穴を掘りました。けれども何も出てきません。ただ小さな鏡が一面と土器〈とき〉の破片〈はへん〉数個が出ただけでした。日が暮れて、つかれ果てて、がっかりした村民の姿を思い浮かべると、おかしいやら、気の毒やら、妙な気がします。


さて、なぜこんな伝説が生まれたのでしょうか。江戸時代の寛延〈かんえん〉二年(一七四九)ごろまでは、古知之庄・塩田松之内は、古知之庄という一つの村でした。奈良時代(自七一〇~至七九四)に韓人巨智賀那〈かんじんこちかな〉という人が、この地方の土地をもらって、奈良地方から移住してきました。この話の金塚は、巨智賀那の塚で、いつのころからか「賀那塚〈かなづか〉」が「金塚」にかわって、ついに「塚を掘ったら金銀が出てくる。」という伝説が生み出されたものだということが考えられ、そうなったのだといわれています。

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