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更新日:2012年10月1日
じようと呼ばれる青年が、坊勢島〈ぼうぜじま〉に住んでいました。じようは、島でも名の通ったむらぎ(網元〈あみもと〉)の仙作〈せんさく〉の船方〈ふなかた〉として、網船にのってはたらいていました。おおぜいのりくんでいる船方の中でも一番若く、正直もので、気のやさしい青年でした。村人たちからは、「じようは親孝行もんじゃ。」と、大へん評判〈ひょうばん〉がよかったのです。
家は、年老いた父親と、若いじようの嫁〈よめ〉さんとの三人ぐらしで、漁師〈りょうし〉としてのじようのはたらきだけではくらしていけません。酒好きの父親を喜ばせるドブロクの仕込〈しこ〉みが、できなかったりすることもありましたが、じようは、父親の笑顔をひとつの生きがいに、一生けんめいにはたらいていました。
ある年の真夏のことでした。その日は沖でいわしを追い、西島のオドモの浜に追い込んだいわしの水揚〈あ〉げに思わぬ手数がかかりました。そのため船方一同は、いつものように夕方はわが家に帰って家族とねることができず、この浜で一夜を明かすことになりました。夜引きをし一網〈あみ〉入れてかかった魚が何であろうと、それで一口飲んで元気をつけようというのです。海に網〈あみ〉をなげいれ、一同は威勢〈いせい〉よく、「よいさ、こらさ、よいさ、こらさ。」と、網をたぐりよせ、引きあげはじめました。皆でたぐって引きよせた網が、それぞれ足元にうず高くつみ重なってくると、手先に期待〈きたい〉が生まれてきます。
「おやおや、なんかしらんが、大きなものがかかってきたぞ。」と一人がいいました。「よいさ、こらさ、よいさ、こらさ。」とみんなのかけ声がいっそう大きくなり、たぐりよせる手元も早くなります。かけ声も「よいさ、こらさ。」から「よいさ、よいさ。」に変ってきました。
少したって、一人の男が「なんどい、こりゃ、何ものぞい。」といいながら、重そうに抱え上げたものがあります。ほのぐらいカンテラの明りに照らし出されたそれは、ひとかかえほどの丸いかたまりでした。「おう、ここにもあがったぞ。」とだれかがいいました。それも同じものです。
「かめじゃ、かめじゃ、水からあがった水がめじゃ、縁起〈えんぎ〉でもない。」
「魚がとれずに、かめがとれたのか。」とそばにいた久助が、逆上気味〈ぎゃくじょうぎみ〉に
「よし、たたき割って、ほり込め。」と、なたをふりあげて打ち割〈わ〉ろうと身がまえました。
そのときあわてて「おうい、割るのは待ってくれ、うらのおとうは、どぶ好きや。どぶろくの仕込みに、うらにくれんけえ。」といいながら、じようは、久助の前に立ち、二つのかめをかばおうとしました。ほかならぬ評判者〈ひょうばんもの〉のじようの頼みです。久助も他の者も気持ちよく、その申し出を許してやりました。じようは、もらい受けた二つのかめを、海岸の砂浜において、その夜は酒盛りもなくしずかな眠りについてしまいました。
夢だろうか、うつつだろうか。じようを呼ぶ声がきこえたように思い「はっ」と飛び起きたじようが、船から海岸を見ました。声が、そちらからきこえたように思ったのです。すると、砂浜においた二つのかめの中から、まぼろしの老人の姿がたちあらわれ、じように向って笑みをたたえています。「ありがとう、じようよ。おまえの孝行は見とどけたぞ。おとうの好きなどぶろくは、わたしのいるかぎり、仕込みにことかかさぬようまもってやるから安心せよ。ゆめゆめ疑うことのないように」といったかと思うと、すうっと消えて、中天の半月にてらされて黒く光るかめの姿と、打ち寄せる潮騒〈しおさい〉のひびきが聞こえるだけでした。
その夜も明けて、翌日も大漁でその日は終わり、じようは二つのかめを背負って、勇み足にわが家へ帰ってきました。さっそく、嫁さんと二人で、父の好物〈こうぶつ〉のどぶろくを仕込〈しこ〉んで、二つのかめを満〈み〉たしました。二つのかめを満たすことを喜びとして、夫婦はいっしょうけんめいにはたらき、それからのじようの家は、幸せになり、生活が大へん楽になりました。そして、かめは、いつも父の好きなどぶろくで満たされていたのです。それから数年たちました。ある日、急な病〈やまい〉で倒れた父が、ぽっくりとなくなりました。
父が死んでからのじようの家では、もう、どぶろくの仕込みの必要がなくなり、土間のすみに埋〈う〉め置かれた仕込みのかめが、空っぽになったままの日がつづきはじめました。そんなある日のことでした。近所の人びとから「じようの家では、ま夜中になるというと、しきりに何かがうなっているようだ。けったいなことや。」というはなしが、村中にひろがりはじめました。「毎ばん毎ばん、ま夜中になるときまって、ううんーううんーと、まるで空〈す〉き腹をせつなく訴〈うった〉えるような、かなしみの地うなりをあげて、かめが、泣き出している。」というのです。
このうわさがうわさを呼んで、村の人びとに語り伝えられているうちに、だれいうとなく、「坊勢〈ぼうぜ〉の夜泣がめ」とか、「坊勢の時告〈ときつ〉げのかめ」とか呼ばれて、島内はもちろん広く播州一円に話題がまきちらされました。人びとは、その物語りに心を打たれ、あるいは、不思議に思って、一目でも、その「夜泣きがめ」を見ようと、じようの家を訪ねる人びとが後を断たなかった、といわれます。
昭和十三年までこのかめはありましたが、現在では、そのかめはどこへ行ったかゆくえが知れません。しかし、じようの子孫の人びとは、現在でも元気よくはたらいておられます。
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