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ホーム > 学校・授業の教材 > 『郷土の民話』中播編 > 湯沢山〈ゆたくさん〉ちゃくれん寺(姫路市井口)

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更新日:2013年2月18日

湯沢山〈ゆたくさん〉ちゃくれん寺(姫路市井口)

姫路市井口〈いのくち〉に禅宗臨済派〈ぜんしゅうりんざいは〉の仏日山法輪寺〈ぶつにちさんほうりんじ〉という寺があります。この寺に豊臣秀吉〈とよとみひでよし〉についてのおもしろい話がのこっています。

豊臣秀吉が、織田信長〈おだのぶなが〉の命をうけて中国征伐〈せいばつ〉をするとき、姫路をその根拠地〈こんきょち〉として三層〈さんそう〉の天守閣〈てんしゅかく〉をもったりっぱな城を建〈た〉てて、まず播磨〈はりま〉地方を平定しながら西の毛利〈もうり〉とも戦っていました。播磨地方の最後の戦いが、英賀〈あが〉城にたてこもって抵抗〈ていこう〉をしていた三木氏を討〈う〉つための英賀城ぜめです。
この英賀城ぜめのときに、井口の法輪寺では、ずっと前から秀吉が通るときはきっと立ちよるであろうと、大きな鑵子〈かんす〉(ちゃがま・湯〈ゆ〉をわかすかま・・)にお茶をわかして、雑兵〈ぞうへい〉(身分〈みぶん〉の低い武士〈ぶし〉)がきても、手をつけて飲〈の〉まさないように、鑵子の環〈わ〉にふたをくくりつけておいていました。ところがそのとき秀吉は、軽い一般の武士の姿で法輪寺に立ちより、お茶がほしいといいました。お坊〈ぼう〉さんはじめお寺や村人たちは、服装〈ふくそう〉からして秀吉とは思われないので、お茶の入っていない白湯〈さゆ〉を出しました。ところが秀吉は、そばの鑵子をみて、
「この鑵子のお茶は、だれがのむのかしらないが、おいしそうなにおいがしているのう。この鑵子のお茶をのませてもらいたいもんじゃ。」
といいましたが、村の庄屋〈しょうや〉たちがでてきて、
「めっそうもないこと、この鑵子のお茶は、姫路のお殿〈との〉さまがここをお通りになり、やがてこのお寺へお立ちよりになられます。そのときにさしあげるために用意しているものでございます。めったに他にさしあげられません。」
といいました。すると秀吉は、カラカラと笑い、
「そのお殿さまは、いまここにいるわしのことじゃ。」
といいました。お寺の坊さんや庄屋たちは、びっくり仰天〈ぎょうてん〉あわてふためいて大いに驚き、
「さようでございましたか、知らないとはいえ、大へんごぶれいを申し上げました。おゆるしください。」
といって、さっそく鑵子のお茶をさしあげました。秀吉は、さし出されたお茶をのみながら、お寺のお坊さんにむかってじょうだんに、
「この寺に『湯沢山〈ゆたくさん〉ちゃくれん寺』(湯はたくさんにあるがお茶はくれないという意味のかけことばのしゃれ)という寺号〈じごう〉をあたえよう。」
といいました。このことから法輪寺のことをべつに「湯沢山ちゃくれん寺」といわれるようになったといういい伝えがのこっています。

このとき秀吉は、庄屋に、ほうびとして武士になる望みがあればめしかかえてやるといいましたが庄屋は、
「百姓ほどよいものはありません。武士になりたいという望みなど少しもありません。」
と申し上げました。
「それでは庄屋の屋敷はどれほどあるか。」
とたずねられましたので、庄屋は、五間四方〈ごけんしほう〉(約八・二五平方メートル)と申しあげました。
「ではきょうのほうびとして毎年米を十石〈こく〉(約一五〇〇キログラム)ずつつかわそう。」と、秀吉はいいました。庄屋は、
「九石〈こく〉九斗〈と〉九升〈しょう〉九合〈ごう〉をたまりたいものです。」といったので、秀吉はびっくりして、
「なぜ十石に一合たらない九石九斗九升九合というのじゃ。」
と問い返しました。庄屋はおそるおそる、
「十石をいただきますとお殿さまにご奉公をしなければなりません。それがいやで一合不足のようにお願い申し上げました。」
といいました。そしてこの庄屋は、十石に一合不足の九石九斗九升九合をもらい、百姓の身分ではたらいたという話です。

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