• お問い合わせ
  • 文字サイズ・色合いの変更
  • サイトマップ
  • 携帯サイト

メニュー

ここから本文です。

更新日:2012年6月1日

亀井寺(姫路市白国)

京の都に住んでいた藤原山陰〈ふじわらさんいん〉が、自分の領地である筑紫〈つくし〉(九州)に旅をしていたときのこと、今の白国のあたりを通りかかりますと、数人の漁師たちが、一匹の大きな亀をつかまえて、殺そうとしていました。

「かわいそうなことをするな。」と山陰はとめましたが、せっかくつかまえたのに、と漁師たちはなかなかはなしてくれません。山陰はもともと気だてのやさしい人でしたから、亀がかわいそうでしかたがありません。しばらく考えていた山陰は、供〈とも〉の者を呼び寄せ、包みの中から、都の布やめずらしいかざりをとり出させ、「これをあげるから、亀を放しておやり。」と、さし出しました。漁師たちは手にしたこともない布やかざりを見て、目をまるくしていましたがやがて、ひそひそと二こと三こと相談したかと思うと、亀を放して、それらの品々を手にし、いちもくさんにかけ出していきました。

大亀は、しばらく山陰をじっと見ていましたが、やがてうれしそうに首をふりながら、のそのそと海の中へ入っていきました。(大むかし、白国のあたりは、海だったといわれています。)亀の姿を見送った山陰は、はればれした気持ちで、ふたたび筑紫〈つくし〉までの長い旅路についたのでした。

それから数年たちました。
山陰の家では幼い子どもを残して妻が病気でなくなってしまいました。山陰は人のすすめもあって新しい妻をむかえました。ところが、二度目の妻は、子どもをかわいがるどころか、何かにつけて、よくいじめました。

ある年、山陰はまた、その所領である筑紫の国へおもむくことになりました。妻はつねづね、憎く〈にくく〉思っていた子どもを、るすの間に亡きものにしてしまおうと、乳母〈うば〉と相談して、海につき落してしまいました。そして、山陰には、あやまって海に落ちて亡くなったように申し送りました。知らせを受けた山陰は、はるかはなれた筑紫で、あわれなわが子の姿を思い浮かべながら、めい福を祈り、わずかな供の者たちと、ねんごろに供養〈くよう〉しました。

筑紫での仕事もかたづいたので、ふたたび山陰は京にむかい、いく日かとまりを重ねて、白国のほとりをたどっていますと、突然、一匹の大亀が死んだはずのわが子を背にのせて、ぽっかり、海の上に浮かび出たのでした。山陰はわが目をうたがいながら、夢かとばかり喜び、近づいてきた大亀の背から、わが子を抱きとり、力いっぱい抱きしめました。

年月がたち、幼な子は今はもうりっぱな若者に成人しました。山陰は思うところがあって、成人したわが子を出家させ、この白国の海浜にお寺を建てて住まわせ、仏法をならわせました。

このお寺は、屋根瓦や仏具などにすべて亀の紋章〈もんしょう〉がつけられており、亀井寺と呼ばれました。また亀井寺の住職〈じゅうしょく〉になった若者は修行を積み、りっぱな僧となって、人びとのためにつくしたといわれています。

この亀井寺は安和年間(平安時代)まで存在していたようですが、そのころ、火災にあい、とうとう再建されないままになりました。今の白国西方の大池のあたりがこの寺のあとで、宝歴〈ほうれき〉時代(江戸時代)なお、このあたりから古い瓦などが掘り出されたと伝えられています。

※この話に登場する藤原山陰は、大納言〈だいなごん〉の官位をもつ平安時代の人です。したがって、筑紫の領地というのは、おそらく自分の領した荘園だったのでしょう。ところで、話の背景になっている白国ですが、当時はもはや海ではなく現在とほぼ同じ姿であったと思われます。(白国あたりが海であったのは大古だと考えられています。)そうしますと、登場人物と背景の間にくいちがいが起ってくるわけですが、十訓抄〈じゅっきんしょう〉、源平盛衰記〈げんぺいせいすいき〉にも亀井寺の成り立ちがでてきますので、それを本すじとしながら、大古の姫路を結びつけてできあがった話ともいえます。

お問い合わせ

情報管理部広報係

電話番号:078-331-9962

ファクス番号:078-331-8022