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更新日:2012年6月1日

木戸の坂(夢前町)

今から二百年ほど前、夢前〈ゆめさき〉町新庄〈しんじょう〉に、恵澄〈えちょう〉・常念〈じょうねん〉という、二人のお坊さんがおりました。二人はある日、托鉢〈たくはつ〉に出て、夢前川に沿うた道を北へ北へと、上っていきました。

夢前川は、いつものように、澄み切ったきれいな水が、勢いよく流れています。新庄の奥までいきますと、大きな淵〈ふち〉がありました。水がきれいなので、淵の底までよく見えます。大きな鮎〈あゆ〉や、名も知れない小魚が無数に泳いでいます。二人はしばらく見とれていました。ふと気がつくと、淵の向うがわに黒い着物のようなものが見えます。気にかかるので、そこまで行って見ますと、さあ驚きました。かわいい子どもが死んでいます。

「南無阿弥陀仏〈なむあみだぶつ〉、南無阿弥陀仏」と念仏〈ねんぶつ〉を唱えながら、よく見ると、山之内〈やまのうち〉の鹿やんの息子で、七才になる男の子です。二人はかわいそうに思って、子どもの死体を、鹿やんの家まで運んで、ねんごろに弔って〈とむらって〉帰りました。この子は少し上流の木戸の難所〈なんしょ〉で、崖から下の淵に落ちて死んだのでしょう。二人は帰る道でいろいろ話しあいました。

恵澄「わしが知ってからでも、もうあの難所で何人死んだだろうな―。」
常念「もう五人くらいにもなりますかな―。」
恵澄「けが人をふくめたら、大へんな数になるな。」
常念「それに牛や馬を加えたら、たくさん死んだり、けがしたり…ほんまに危ないことじゃ。」
こんな話をしているうちに、木戸の難所まで帰りました。

木戸の難所というのは、山之内と新庄との間にあって、夢前川の水が太古から休みなく岩山に突きあたって、山を削りとり、数十メートルの断崖〈だんがい〉を作った所で、断崖の中央に人がひとり通れるほどの細道があるだけでした。そのうえ断崖の下は、広い深い淵ができて真青な水をいつも湛えて〈たたえて〉います。

常念「これは危い。人が落ちたり死んだりするはずですね―。」
恵澄「衆生済度〈しゅじょうさいど〉のために、もっと広い安全な道を作ろうではないか。」

二人は歩きながらいろいろ相談して、安全な道を作ることにしました。家へ帰って、庄屋〈しょうや〉や村人にもこのことを話し、協力や寄附金〈きふきん〉を頼みました。けれどもだれも相手にしてくれません。

「あんな岩山に道なんか作れるもんかい。やまこ坊主の気違いに、だまされてたまるもんかい。」と、いった具合で、寄附金なんか一文も集まりません。けれども二人の衆生済度の願いは、いよいよ堅くなるばかりです。とうとう二人だけで、道作りにかかりました。
なれない石のみを手にして、毎日毎日「コッツン、コッツン」と根気よく仕事をつづけました。

一月〈ひとつき〉たち、二月〈ふたつき〉三月〈みつき〉と過ぎて、早半年も続きました。このころになると三分の一くらいは出来上がりました。さあこうなると、庄屋も村人も驚きました。

「あんな乞食〈こじき〉同様の坊主二人だけでも、あれまでに仕上げた。俺たちが協力したら、もっと広い安全な道ができるぞ。」と考え直してきました。

寄附金が集るようになりました。石工〈いしく〉も雇える〈やとえる〉ようになりました。石垣積みの職人も雇えました。そのうえ村人も毎日五十人ほどずつ手伝いにきてくれました。工事は見る見るうちに進みました。淵の上には、高さ五メートルくらいの丈夫な石垣が積まれました。道幅も二メートルあまりに広げられました。もうこれで、人も馬も、車も牛も、自由自在に通れます。村人はどんなによろこんだことでしょう。

恵澄〈えちょう〉と常念〈じょうねん〉は、この難所で亡くなった人びとや動物たちの供養〈くよう〉のため、一字一石塔〈いっせきとう〉を作りました。一字一石塔というのは、ひとつの石に一字ずつ字を書いて、お経を書き写して埋め〈うずめ〉、その上に石碑〈せきひ〉を建てるものです。二人の建てた塔は、法華経〈ほけきょう〉が書いてあります。このお経は長い尊いお経で、字数にしても数万字はあるでしょう。今もこの塔は木戸の坂の頂上に建っていて、ふたりの高僧〈こうそう〉の尊い心を語っています。

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