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更新日:2012年11月5日

ばば焼(日高町松岡)

承久〈じょうきゅう〉三年七月、後鳥羽天皇第三皇子雅成〈まさなり〉親王は幕府の手に捕えられ、都から三十里(一二〇キロメートル)もはなれたさびしい但馬高屋の高岡の里に移られることになりました。
親王様には、結婚して間もない美しい幸姫というお妃〈きさき〉がありました。
大切な親王様をうばわれて、幸姫さまは毎日泣きくらしておられました。家のまわりには、見廻りの武士がいて外に出ることもできません。そのうちに、北山おろしが吹き厳しい冬がやってきました。
今までは、大勢の女官や家来〈けらい〉達にとりかこまれて、はなやかな生活でしたが、幕府の役人に何もかもとり上げられ、小さなみすぼらしい家で寒さにふるえていなければなりません。その上困ったことには、幸姫さまには赤チャンができていました。
「どんなにつらくとも、親王様さえいて下されば。」
と思うと、幸姫さまは、悲しさにもう死んでしまいたいと思いました。
「でも、死んでしもうてはお腹〈なか〉の御子がかわいそう。死んだと思えばどんなこともできようぞ。」
と、思い返した幸姫さまは、こっそりと家をぬけだして高岡の里をたずねて行こうと決心なさいました。
春まだ浅い三月のとある日の夕暮れ、見張りの武士の目をかすめ、侍女を一人連れた幸姫さまは逃げるようにこっそりと旅立ちなさいました。それまで、遠くへ歩くといってもせいぜい春の花見や秋の紅葉〈もみじ〉狩りに行かれるくらいのものです。
日も暮れる頃には、もう足の皮がすりむけて血がにじみ、足が一歩も前に進まなくなってしまいます。
「お妃さま、ここへお掛けなさいまし。おみ足の手当をさせていただきまする。
おお、お傷〈いた〉わしや、このおみ足は、世が世なら帝〈みかど〉の皇子さまのお妃さまともあろうお方が。」
侍女は、あまりのお気の毒さに声をあげて泣き伏してしまいました。
忠義な侍女の助けで、重い足をひきずり、ひきずり、ある時は百姓の家にとまりある時は草のしとねにうちふして、やっと夜久野峠をこして但馬の国におはいりになりました。でも、また行けども行けども山また山です。ああ、高岡の里は一体どこに在〈あ〉るのでしょう。
幸姫さまと侍女が、やっと松岡の里までたどりつかれた時、幸姫さまは、きゅうにお腹をおさえてしゃがみこんでしまわれました。陣痛〈じんつう〉が始まったのです。侍女は、急いで百姓家にお妃をお連れしました。
お妃の体はすっかり弱り切っていましたから、出産は大変な難産でした。幸姫さまの生命は、まさに風前の灯でした。―でも、お生まれになったのは、玉のような元気な皇子さまでした。
産後の幸姫さまの体は中々回復しません。が、いつまでも百姓の家に世話になっているわけにはいきません。そして何時また追手〈おって〉の武士に見つかるとも知れません。侍女や百姓家の人たちが止めましたが、幸姫さまは、はうようにして家をお出になられました。侍女は皇子を抱いてお伴しました。
たで川の岸べも、ようやく春めいて桜の花もほころび始めていました。たで川の川いとでは、白髪〈が〉の老婆が洗濯をしておりました。侍女は老婆に近づいて尋〈たず〉ねました。
「おばばどの、高岡の里へはどう行けばよろしいでしょう。」
「さあて、ばばは高岡ちゅうとこは、聞いたことはありまへんがな。」
と、ばばは味もそっけもなく答えます。ここまで来て道をまちがえたのではと、幸姫さまの背すじには、氷のように冷たいものがつつつーと走りました。
「おばばどの、それは何かのまちがいではありませぬか。」
侍女は、すがるような目つきでばばをみつめます。それを聞いたおばばは急にけわしい顔つきになり、
「高岡いうのは知りまへんが、高屋というのはこの道すじにござります。だけど、高屋までにゃあ、七日かかる納屋〈なや〉、九日かかる九日市、十日かかる豊岡があり、その先にゃ人をとる一日市(豊岡市一日市)がありましてなあ。」
と、つきはなすように言うとくの字のおれた腰をポンとたたき、うす気味悪い笑いを残して行ってしまいました。高岡の里は高屋に在るのです。
これを聞かれた幸姫さまは、
「これ以上三日も歩めば、気力も尽〈つ〉きてしまうのに、まだ二十日以上も歩まねばなれぬとは、もう到底〈とうてい〉生きる望みもありません。」
と、申され、皇子を川べりの石の上におき、せめてもの身験〈じるし〉にもと守袋を皇子の身許にそえて、
「死後、必らずや南風となって高屋に達しましょうぞ。」
と申され、ざんぶとばかり川へ身をお投げになりました。侍女も両手を合わせてお妃の後をおいました。時に承久四年四月十四日でありました。
その夜から南の風がだんだんと強くなり、大両が降り出して松岡をはじめとする国府の里は時ならぬ洪水にみまわれました。
幸姫さまの怒りに恐れおののいた村人たちは、お妃に嘘を言った老婆を川河にひきずり出し、火あぶりにして殺してしまいました。そして幸姫さまの霊を産土〈うぶすな〉神として十二所神社にお祭りしました。これを若宮さまと呼んでいます。
この日には、今でも不思議に南風がふき、村人たちは現在でも、毎年四月十四日には夕方から、わらで作った老婆の人形を焼く「ばば焼まつり」を続けています。
また姫は、大変おきれいな方だったので、かみにくせがあったり、色が悪かったりする人や、また婦女子の病のある人は、髪を切って神前にお供えする習慣もあり「若宮さん」は別名「かみながさん」とも呼ばれています。

註・雅成親王=後鳥羽天皇第三皇子、二十二才承久の変で但馬に配流、三十四年間の配所生活、二十七才で出家して五十六才で没。
松岡でお生まれの皇子は高屋本井氏に育てられ出家して光妙寺にはいる。
たで川=円山川の国府附近をいう。

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