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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』但馬編 > 七日めぐり(養父町三谷)と井垣さんの首石(大屋町横行)

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更新日:2012年12月3日

七日めぐり(養父町三谷)と井垣さんの首石(大屋町横行)

今から六百年あまりも昔。養父町浅野と大坪の村境“城がはな”の山に井垣城という小城〈こじろ〉があり、その家老に井垣甚十郎という、えらい武士があった。
ある時、悪者たちが相談して「井垣甚十郎に悪だくみがある。」と、殿さまに告げ口をしました。殿さまは、甚十郎を信じて「ばかなことをいうな。」と、たしなめたり「甚十郎にかぎり、さようなことはない。」と、叱〈しか〉ったりしました。
しかし、悪者たちは、いろいろな悪いうわさを流したり、代〈かわ〉るがわる殿さまに告げ口をしたので、とうとう、殿さまも腹をたてて、
「甚十郎め、だまし居ったか。よしッ、ガンドウびきの刑〈しおき〉にせぇ。」
と、きびしく言いわたしました。ガンドウびきの刑とは、立木にからだを縛〈しば〉りつけ、道行く人に、少しずつ、ガンドウ(大のこぎり)で首を切らせる。むごい刑です。
心ある者は、殿さまをいさめたり、甚十郎の無実を説〈と〉いて命乞〈いのちご〉いをした。また、甚十郎に「いいわけをせよ。」とすすめる者もあった。が、甚十郎は、悪びれず、いいわけもしなかった。
やがて、刑の日が来ると、ふだんより、少し早く起き出た甚十郎は、愛馬にまたがり、馬場(城がはなから稲津橋までの田)を四半刻〈しはんとき〉(約三十分間)ほど乗りまわし、それから白装束〈しろしょうぞく〉に着かえて、静かに刑の座につき、かたわらの武士に遺言〈ゆいごん〉しました。
「わが首は、前の川に投げ込め。身の証〈あかし〉を立てようぞ。」と。

切り落された首を、遺言通り、前の建屋川に投げ込むと、アララ不思議〈ふしぎ〉、首は水の上をすべって、川上へさかのぼって行くではないか。大坪・船谷の村むらをさかのぼり、三谷村との境〈さかい〉の淵〈ふち〉の渦のままに、ぐるぐる、ぐるぐるまわりはじめ、とうとう、七日間もまわりつづけた。だから、ここをナヌカメグリと、いうようになり、今も、通行人の恐れる所となっている。
八日目に流れだした首は、城や刑場〈しおきば〉の前を流れ、大屋川との出合いから、今度は、大屋川をさかのぼり、大屋町横行の村はずれの川中にある、大きな石(井垣さんの首石といい伝える)の上に、東(浅野)の方を向いてすわった。村人たちは、この首を見て驚き、たたりを恐れて、川ぞいの空地に、ていねいに葬〈ほうむ〉り、首塚を作った。

その後、間もなく、悪者たちの悪だくみがばれ、甚十郎の疑〈うたが〉いは晴れた。後悔した殿さまは、浅野橋のたもとに、五輪塔〈ごりんとう〉と宝篋印塔〈ほうきょういんとう〉を建てて、その霊〈れい〉を弔〈とむら〉った。それが延文二(一三五七年)年であることは、塔に刻まれた銘に読みとれる(現在、二つの塔の一部を失い、一つに組み込んでいる)
また、横行の「井垣さんの首塚」には、井垣神社を建て、一族の一家を宮守としてつかわし、命日〈めいにち〉(死んだ日)には、毎年かかさず供〈そな〉え物をしたが、天正(一五七三~一五九二年)の頃に井垣氏が滅〈ほろ〉びると、代って浅野村がこれを勤め、世が明治になると、この古い習〈なら〉わしもすたれ、宮守りの井垣氏が死に絶え、井垣神社は、横行の氏神志賀峯〈しかのみね〉神社に合わせ祭った。しかし、井垣さんの宮当番は続いていて「井垣さんの宮当番は、不時〈ふじ〉(思いがけぬ不幸)をくう(にあう)。」と、その逆恨〈さかうらみ〉を恐れている。

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