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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』但馬編 > 甚五郎〈じんごろう〉と新田〈にった〉井せき(出石町)

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更新日:2012年10月8日

甚五郎〈じんごろう〉と新田〈にった〉井せき(出石町)
―伊豆万燈の由来〈ゆらい〉―

毎年、盂蘭盆〈うらぼん〉がくると、八月十四日と十五日の二晩、伊豆地区(出石町伊豆)の田んぼに一列に美しく万燈の火がともされます。
これについては、次のようなお話しが残っています。
江戸時代のころだったでしょうか、但馬の穀倉地帯である豊岡・出石地方の六方・新田・宮内の田んぼは、田植えの時期から穂の出る二百十日前後までは、井せきをつくり、そこから水を引きいれておりました。その水の確保がその年の稲作のよしあしをきめる鍵となっていましたので、水の確保は非常に、だいじなことであったわけです。
今からお話しする新田井せき(出石町伊豆)もそのひとつだったのです。

新田井せきをせきどめする日には、奉行〈ぶぎょう〉がさいはいをふるったと言われています。こんなだいじな井せきですから、井せきのほとりには番小屋が建っていて、いつもせきもり(番人)がいて、昼も夜も川を横切って積まれた土の俵と水とを見つめて、厳重な監視を続けておりました。
ところが、新田井せきがせかれる〈止める〉と、水かさが増すものですから、伊豆村一帯は浸水のうき目にあわなければなりませんでした。地べた〈土間〉のクド〈かまど〉は、しめってしまって、火もたけなかったということです。
だから、村人達は困ってしまって、毎年のように役人にかけあいましたが、
「おまえ達のいうことを聞いとったら、新田田んぼは干上〈ひあが〉るわ。」と、その度に一しゅうされておりました。
初めは泣きね入りをしていた村人達でしたが、しだいに「土俵をこわしてしまえ、井せきをくだけ。」という声がもちあがってまいりました。
きょうも伊豆村では、新田井せきの問題について、寄り合い(会合)が開かれておりました。
「役人がわしらの願いをきいてくれないなら、井せきをくだいたらどうか。」
「しかし井せきをくだいて見つかれば、死罪になるぞ。」
「そうかといってやらないと、わしらの生活ができないじゃないか。」
「くだくとなると、だれがやるのか。」
寄り合いの席は、重苦しい空気につつまれておりました。
その寄り合いの中に、伊豆村の百姓で甚五郎という人がおりました。甚五郎は、この村の難儀を見かねて、途中からそっと寄り合いの席をぬけ出しました。そして、わが家に帰って、サンダワラ(わらで造った米俵のふた)を用意し、井せきをくだくために、川へでかけていきました。

こちらは新田井せきです。
新田井せきのせきもり(番人)が監視を続けておりますと、上流からサンダワラ(米俵のふた)が流れて来て、土俵にあたりました。わらで造られた軽いサンダワラなのに、土俵がくずれ、水はどうどうと流れ出し、水位はみるみる下がってしまいました。せきもりは、びっくりぎょうてんしました。しかも、今度はそのサンダワラが上流へ上流へと向かって動いていきます。
「おかしい。」
大急ぎで、川ぶちを突走ったせきもりは、とび口でサンダワラめがけて一うちしました。するとどうでしょう。川の水はみるみる血でそまり、サンダワラを頭にくくりつけた百姓の死体が浮き上りました。
その人こそ、寄り合いを途中でぬけ出した伊豆の百姓甚五郎だったのです。

寄り合いをしていた村人一同は、急に土間から水の引いていくのにびっくりして川ぶちへ出かけていきました。そしてはじめて、この事件を知りました。
村人たちは彼の死体にとりすがって
「ワリャ〈お前〉あほうじゃ。上〈かみ〉へ流れるサンダワラがあるかい。下〈しも〉に流れりゃ助かったかもしれんのに。」と言って、オイオイ泣いたといわれています。

それ以後は役人も新田井せきを下流に移して、伊豆村が浸水しないよう気を配〈くば〉りました。村人たちは、村の犠牲になった甚五郎を手あつくとむらい、その霊をなぐさめました。
これが今でも残る万燈の由来です。だから、盂蘭盆〈うらぼん〉の万燈の当日には、一きわ高く「甚五郎」という燈明の火がともされ、それにつきそうように、その頃の伊豆の戸数百二十の万燈がともされて、今に続けられ、甚五郎の霊〈れい〉をなぐさめています。

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