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更新日:2012年12月3日

牛が峯(浜坂町・温泉町)

国道九号線は蒲生〈かもう〉峠が兵庫県と鳥取県との境になっています。このすぐ南の方に牛が寝たような形の山があり、これが牛が峯です。
この山の上に小さい神社があり、牛や馬の守り神様だといわれていますが、ここには、もと大きなお寺が建っていたといわれています。そして大ぜいのお坊さん達がこのお寺で修行にはげんでいたそうです。
ところがこのお寺は山の上にあるので、生活に必要な水は随分〈ずいぶん〉はなれた「日の水」と名をつけている泉まで行って汲〈く〉んでこなければなりませんでした。

ある朝、この水を汲みに降りて行った小僧さんがいつまでたっても帰ってきません。呼びに行かせたところ、水桶は泉のそばに投げだされており、小僧さんの姿は見えません。いくら大声で呼んでみても返事はありませんでした。
「この山の修行の生活が苦しいので逃げてしまったのだろう。」
と坊さん達は話しあったのですが、あくる日も、そのまたあくる日も桶はやっぱり泉のそばに投げすててあり、水汲みに行かせたどのお坊さんも帰ってきませんでした。
今度は二人で行かせたところ、間もなくまっ青〈さお〉になって一人がかけ込んできて、一緒に行った小僧さんが大きな蛇にひと口にのまれてしまったと話しました。
山寺のお坊さん達は蜂〈はち〉の巣をついたような大騒〈さわぎ〉になりました。
「大蛇を殺さねばならぬ・・・。」
「どうして殺すか・・・。」
「いや、皆が山を降りて逃げた方がよい・・・。」
といろいろと相談します。はげ頭がじゅずのように並んで、口々にいろんなことを言いますが良い知恵がうかびません。
その頃、後〈のち〉には比叡山〈ひえいざん〉に登って慈覚大師〈じかくだいし〉といわれる偉〈えら〉いお坊さんになった人が小僧さんで、この山で修行していましたが、その小僧さんが、
「藁〈わら〉で人形〈にんぎょう〉を作り、その腹のなかにお灸〈きゅう〉につかうもぐさを一杯つめ、線香に火をつけておいて、蛇が人形〈にんぎょう〉をのみこんだ頃にもぐさに火がつくようにして、その人形を水のそばに立たせておいてはどうでしょう。」
と言いました。
早速、この藁人形が作られて、朝早く泉の近くにたてておきました。遠くからそっと見ていたところ、腹のまわりが二メートル以上もあるような大蛇が出て、その人形をひとのみにして逃げて行きました。
皆大よろこびしていたところ、山が鳴り、地はぐらぐらと揺れ動いて、山の南側にあった大きなほら穴から石も土も木も大空に飛び散って、大きな山くずれが起りました。そして、人々はそのもうもうとあがる土煙や石の間から苦しがってあばれ回っている大蛇らしい姿をみました。
山は南側のがけが長さ一キロメートルばかりも崩れ落ち、下を流れていた小又川の水はせきとめられてしまいました。
その小又川のそばに小さな村がありましたが、村の人達は土煙が空いっぱいにひろがり、石や小石が雨のように降ってくる中を南の山をめざしてはい上って逃げて行きました。やっと丘の上の森の中に息もたえだえにたどりついた人達は、そこここの、木の根もとにつぶれついて休みました。傘のように枝を交〈かわ〉した大きな木々が生〈お〉い茂っているこの森は石や土が降ってくるのをさえぎってくれました。
しばらくこの木の下で休んで元気をとりもどした人達は、せきとめられた小又川の水で、今逃げてきた自分の家や村が、次第〈しだい〉に水の底に沈んで行くのをうつろな目でじっとながめていました。

やがて―、水はついに満ちて、大きな湖となり、この丘が小島のようになりました。
家を失った人達はこの小島の近くに家を建て、湖の上、うみがみと村の名をつけ、助けられた森にお宮を作り神様をお祀〈まつ〉りしました。そのうちいつの間にかうみがみを海上と書くようになりました。山の中にありながら海上とか小島とかいう名があるのはこんな訳があったからだといいます。

それから後、山寺も東にある海上の村も平和な日々が続きました。
しかし、また大変なことが起きたのです。
梅雨〈つゆ〉には珍らしい良い天気が続いて、すがすがしい夏の日の夜が明けました。突然大きな音がして、小又川をせきとめていた土も石も一気に崩れて、この大きな湖の水が奔流〈ほんりゅう〉などといった言葉や洪水〈こうずい〉といった言葉でとても言い切れない物すごさで流れだしました。下流の田も橋もことごとく洗い流してしまいました。とりわけ川のそばにあった栃谷〈とちだに〉の村は一軒のこらず流されてしまいましたが、人間は一人も犠牲者がなかったというのです。それにはこんな訳があったのです。
栃谷の一番の分限者(財産家)の家に七美〈しつみ〉(美方郡の東部)の方から来た、若い大へん美しい娘さんが奉公していました。
ところがこの娘さんにいろんなことを占〈うら〉なってみてもらうとみんなよくあたりますので次第に信用するようになりました。
ある日のこと、この娘さんが
「六月十日には、これまで見たことも聞いたこともないような大水が出るから、村中の人はみんな、南の丘の上に集るように。」
というのです。
その日になりましたのでまだ闇〈くら〉い中〈うち〉から村中集ってわいわい騒いでいました。
「こう毎日毎日良い天気だのに、洪水なぞ出るだろうか?」
「今年はこう天気つづきでは田の水にも困るぐらいだのに、何ぞのまちがいじゃないか。」
「何ぼ何でもこれはあてにならん。」
眼の下に見える岸田川の水は川の片すみを白く細く流れています。
「この忙しい時期にこんな所でうろうろしとられん、帰ろう、帰ろう。」
と皆が引き上げようとした時、にわかに上流の方から高い不思議な音がしてきました。
皆おどろいて音の方を見ますと、こげ茶色の濁〈だく〉流が滝のようになって流れ出し、みるみるうちに、田も岸もなめつくしておしよせ、足元の丘もくずれるばかりで、みんな後にとび下る程のすさまじさでした。
うちくだかれて持ち去られた家や荒れはてた村の跡を見てみんな命が助かったことをよろこびましたが、不思議にもそののち、命を助けてくれた女の姿をみた人はありませんでした。
今は小又川も狭い谷あいを曲りくねって細く流れており、昔に満々とした湖があったなどと想像されるものは何一つとしてありません。
だが時のうつりかわりはこうした自然ばかりではありませんでした。
山の上の寺も長い間、寺領として但馬と因幡にたくさんの田や畑を持ち栄えていましたが豊臣秀吉が中国征伐〈せいばつ〉をしたとき、その軍勢に焼うちにあい、寺も塔もなくなり、多勢のお坊さんもある者は討死し、あるものは逃げてしまいました。そして寺も滅亡してしまいました。
今、遠く近くの緑の山脈〈なみ〉や、その間にひろがる田や村々、北の方には日本海の海の青さと空の青さが一線でつながる景色を見わたせる山の上には、牛が峯神社が雨や風に痛んだまま、ひっそりとたっています。

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