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更新日:2012年6月20日

妙見の臼(八鹿町)

八鹿〈ようか〉の妙見山に妙見菩薩〈みょうけんぼさつ〉がおくだりになったころのとおいむかしのことです。

網場〈なんば〉村に森木三右衛門〈もりきさんうえもん〉という人が住んでいました。彼の家の前は街道で、その向こうに、山から円山川に向かってつき出ているなだらかな尾根が見えました。その尾根の端〈はし〉には和奈美〈わなみ〉神社がお祭りしてありました。三右衛門はこの家に、妻と二人で住んでいました。

二人は神さまへの信仰もあつく、はたらき者でした。田畑をたがやし、そのあい間には街道を行く人の荷物運びも手伝ってかせいでいました。

ある夜、この家にふしぎな客がおとずれました。

三右衛門が夜なべ(夜の仕事)をおえて寝ようとしていたところ、表戸をコンコンとたたき、声をかける者があります。こんな夜ふけに誰だろうと思いながら、三右衛門が戸口〈とぐち〉に出てみますと、くらやみにひとりの若者が立っていました。おそくなってからで申し訳ないけど、こん夜泊めてもらえないだろうかというのです。疲れているようすであるのを見て、気の毒に思い、「むさくるしいところで、なんのもてなしもできないけど、休んでいきなはれ。」といって、家へ入れました。

ほのぐらいあんどんの光に照らされた若者を見て、三右衛門は、この者がただびとではないような気がしてなりません。若まげをゆい、かみしもをつけ、腰に小力をたばさんだ姿は、妙見のお頭人〈おとうにん〉ににていました。そして、顔だちはまだあどけないこどもです。しかしその全身には何かふしぎな気配がただよっていました。このため、三右衛門はこの子を部屋へ案内しただけでは何か不足しているような気がしておち着きません。そこで妻と相談し、蔵から臼をとり出し、これを部屋へもっていきました。すると、その子は、ためらうようすもなく、当然なことのように、臼のうえにすわりました。三右衛門が部屋から出てしばらくすると、その子も出て来て、「わたしはこれからやすませてもらいます。しかしわたしがやすんでいる間、部屋の中を決してのぞかないようにして下さい。」といって、すぐにひき返しました。

三右衛門はこの子がふしぎでなりません。のぞくなといわれてよけいに気になりだしました。このため、その夜はよく眠れず、うつらうつらとしておりました。夜中、ふと目のさめたとき、彼はとうとうがまんができなくなりました。そっと床をぬけ出すと、部屋に近づき、板戸のすき間に右の目をあて、やみの中をすかしてみました。すると、臼のあるあたりが何やらぼんやり白く見えます。それが何だろうと思って、けん命に目をこらしてみました。一瞬、彼は思わず「アッ」と息をのみました。なんとそれは、臼にぐるぐると巻きついてやすんでいる白い大蛇の姿ではありませんか。

三右衛門はそれからどうして自分の床へ帰ったか知りません。彼はわなわなと床の中でふるえていました。ようやく気のしづまったころ、その子は起きてきて三右衛門夫婦に声をかけました。もう帰るというのです。午前四時ごろでした。

身じたくをととのえると、その子は出ていきました。が、またまたふしぎなことに、彼は街道をいかず、和奈美神社の森のある尾根へ向かって、道のないところをまっすぐに進んでいきます。やがてやみの中に見えなくなりましたが、尾根の少したわって低くなっているところを越すとき、その影がくっきりと夜明け前の空に浮かんでみえました。

このとき、三右衛門はハッと気がつきました。
「ああ、妙見さまの御使いだったのだ。」
その子が進んで行ったのは、まっすぐに妙見宮の方角をさしていたからです。

三右衛門はこのあと、最後にお姿が消えたところに鳥居を建て、石原の妙見宮をのぞんでおがむ場所にしました。彼の家はこのときからふしぎに運がよくなり、だんだんとお金持ちになりました。うわさを聞いた村人たちは、いつしか、鳥居の建っているあたりを「富貴が撓〈ふきがたわ〉」とよぶようになりました。しかし、いいつけにそむいて、部屋をのぞいた罰なのでしょう。のちのち、この家のあるじとなる人は、右の目が盲いて〈めしいて〉生まれたということです。

三右衛門から数代たって、不信の人が家のあるじとなりました。妙見さまをあがめず、鳥居が朽ちて倒れても、新しいものとかえませんでした。すると、家はにわかにおとろえはじめ、とうとう家は絶えてしまいました。屋敷あとは、菜園にかわってしまったということです。しかし、あのふしぎな夜以来、大事にしまってあった臼は、三右衛門の家の分家、三吉の家にあずけられていました。

この臼にもまた、ふしぎな力がのりうつっていました。
文化〈ぶんか〉四年(一八〇七年)の秋、網場村は大火事に見舞われて、二十軒余りの家が焼けてしまいました。

三吉の家も焼けたのですが、臼をしまってあった蔵だけは、ぽつんと焼けあとに残っていました。もちろん臼は無事です。三吉はこの臼がもったいなく思われてなりませんでした。そこで、あくる年の秋、妙見宮の別当〈べっとう〉寺であった日光院へこの臼を奉納し、ながく供養〈くよう〉してもらいますようにと、お願いしました。

この臼は、いまでも八鹿町石原の日光院の本殿内陣にお祭してあります。高さ七十センチメートル、直径三十五センチメートルばかりです。また「富貴が撓〈ふきがたわ〉」という地名はいまでも用いられています。
網場の和奈美神社の前、国道九号線より上のあたり一帯がそうです。

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