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更新日:2012年6月20日

三開山の黒米(豊岡市)

豊岡の市街地から東の方、少し離れた新田〈にった〉地区に但馬富士といわれる三開山という山があります。その山の頂上から、今でも焼けた黒い米が出るといわれています。

これについては、次のような言い伝えが残っています。

この三開山の頂上に城があり、この城に新田四郎という人がたてこもっておりました。ある時この城に豊臣秀吉が攻めてまいりました。城にたてこもっていた新田四郎は、敵に水の不自由なことをさとられてはならないと考え、三開山の頂上から麓〈ふとも〉で、ずっと白木綿〈しろもめん〉(白い布)をしいて、水が頂上から麓まで、たくさん流れているように見せかけました。

ところが、三開山の麓の小さなお寺に住んでいた尼さん〈あまさん〉が「あれは水ではなくて、白木綿なんだよ。」と、麓にいる秀吉の軍にそっと伝えました。

それを知った麓の軍は大変喜んで、白木綿に火をつけて燃やしてしまいました。この火はどんどん白木綿を伝わって上まで燃えあがって、とうとう三開山の頂上にいた新田四郎の軍の米倉をも焼きつくしてしまいました。そしてとうとう秀吉の軍に攻められて退却したといわれています。

戦いが終ってからあと、秀吉軍に密告した麓の尼さんの耳に、夜な夜な馬のひづめの音が聞えたといいます。これは、多分頂上にいた新田四郎の軍の霊が、尼さんをのろって、毎晩こういうようにしたのだと伝えています。

 

また、これについては別に次のような話も残っています。

足利尊氏が新田義貞を攻めた時、義貞は三開山の頂上に城をつくりたてこもっておりました。そうして、いろいろと作戦をめぐらしておりましたが、三開山の表側から攻められても、急ながけのために、備えは固く大丈夫でしたが、裏手の出石の方から攻められたならば、敗戦はうたがいないと考え、これを防ぐためには、どうしても敵の目をくらますより他に方法はないとして、お米を山の上からどんどん流して、滝にみせかけていました。

ところが、何日目かに敵の間者〈かんじゃ〉(スパイ)に見つけられてしまって、麓から火をつけられたので城におれなくなり、総退却したという話です。

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