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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』但馬編 > 天日槍[天之日矛]の渡来と開拓(出石町)

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更新日:2012年6月20日

天日槍[天之日矛]の渡来と開拓(出石町)

『昔、新羅〈しらぎ〉の国に天之日矛〈あめのひぼこ〉という王子がありました。あるとき身分のいやしげな女の人がその国の阿具沼〈あぐぬま〉という湖のほとりで昼寝をしていますと、陽の光が虹のように身体にさしてみごもり、赤玉を生みました。

この様子をかくれ見していた男があって、その玉を手に入れましたが、故〈ゆえ〉あって日矛の所有に移ります。この赤玉を持ち帰った日矛が、床に置きますと玉が化生してみめ麗しい〈うるわしい〉乙女にかわり、二人は結婚しました。
その後妻は日矛のために心をこめてご馳走〈ごちそう〉を作り、よくつくしましたので楽しい幸福な日々がつづきました。

そのうちこれに馴れて〈なれて〉日矛の心がおごり、妻をののしりました。
そこで「わたしは、あなたの妻になるべき女ではありません。わたしの祖〈おや〉の国に行きます。」といい残して、こっそり小船に乗って日本に逃げ渡り、灘波〈なにわ〉(大阪)に着いてここに留まりました。(難波の比売碁祖〈ひめこそ〉社の祭神阿加流比売〈あかるひめ〉神)
これを知って、おどろいた日矛は妻を追って日本に渡来し灘波に上陸しようとしましたが、その辺〈あたり〉の神々にはばまれてどうしても入れません。
そのため、あらためて舟で但馬の国に着き、土地の人俣尾〈またお〉の娘前津見〈まえつみ〉と結婚して多遅摩母呂須玖〈たぢまもろすく〉(出石町諸杉〈もろすぎ〉神社の祭神)が生まれ、子孫が大いに栄えました。』この話は、奈良時代の和銅五年(七百十二年)につくられたわが国最初の史書「古事記」にある物語です。同じ日矛の渡来を日本書紀では「天日槍〈あめのひぼこ〉」と書き、全く異った物語にしております。
また隣国の「播磨風土記」では、日槍のその後について、「この頃播磨の国にいた葦原志挙乎命〈あしはらのしこおのみこと〉と天日槍が大合戦を行い、生野の志爾嵩〈しにだけ〉で和解して黒葛〈かづら〉の矢を三本ずつ放ったところ、日槍の矢はみな但馬に落ちたので播磨と但馬の国を分け合い、日槍は但馬に定住した。」とあります。
この日槍の渡来した年代は、学者によって諸説があり確定しませんが、弥生時代の後期から古墳時代の前期あたりとされます。
この頃の豊岡や出石盆地のほとんどは海水のさしこむ半かん水の泥湖〈どろうみ〉で、耕地は少なく生活のしにくい土地だったと伝えられます。

今でもこの地方には水にちなんだ地名が多く、豊岡盆地の塩津・大磯・結〈むすぶ〉浦・楽々〈ささ〉浦・二見浦・湯島・桃島や、出石盆地の島・長砂〈ながすな〉・水上〈むながい〉・南湖(倉見)などがあり、また「ぶり」が釣れたといわれる鉢山の「ぶり山」・「あじ」が釣れたと伝える出石町の「鯵山〈あじやま〉」などもあります。
また、先年の学術調査で有名になった豊岡市中の谷貝塚や、その上流に位置する長谷〈ながたに〉の貝塚からは半かん水に住む「はまぐり」「あさり」「まがき」「さるぼう」「しじみ」などの貝がらが層をなして多く発見され、伝説との関係に興味ある問題を示しております。
この頃はまだ農耕も普及せず、金属器の文化も未発達な時代でした。
大陸の先進文化を身につけ、いろいろな技術者を従えて但馬に渡来した日槍は、土着の人々と力を合せてこの地方を開発しようと考えられました。まずこの地方の南にある一番高い山、床尾〈とこのお〉の山頂に立って見渡されますと、北の方来日岳〈くるひだけ〉の下流で水がせかれて(止まる)います。「瀬戸」といわれ、固い岩盤がさえぎり、困難な工事が予想されます。
まず工事に使う鉄器がいります。その原料となる砂鉄を探し求め、鉄器製造の金床〈かなとこ〉を設け〈もうけ〉ました。その場所が床尾だったといいます。
今でも床尾山の別名を「鉄鈷〈とこ〉山」とよび、金床があったことから名づけられたともいいます。
このようにして始まった工事は、日槍を中心に五社明神の神々や、土地の人々の協力と努力で進み、瀬戸もやっと切り開かれました。
留まっていた泥水が音をたてて日本海に流れだし、水の引いたあとには肥えた平野が次第に広がり、工事が完成するかに見えたとき、残った水の中ほどがにわかに揺れ動き、渦巻き、水煙をあげて大蛇が現れました。
驚きさわぐうちに大蛇は下流に向って泳ぎ、せっかく切り開いた瀬戸の口に大きな身体〈からだ〉を横たえて、流れ出る水をせき止めました。
大蛇はこの湖一帯を支配する主で、完成を目前に起った最大の妨害です。
日槍を中心に、工事に協力された神々もみんなで力をあわせてやっとこの大蛇を追い払い、干拓が成功しました。

干拓された土地には水田耕作を広め、湿地には柳を植えさせ、後に盛んになるき柳製造のもとを開かれたといいます。また朝鮮より渡来された時の従者には陶工もおり、出石町の旧地城名には「埴野郷〈はのごう〉」があって、土器の製造が盛んだったと伝えられます。
日槍を祭る出石神社は、出石町宮内にあって「但馬一の宮」の略称「一宮〈いっきゅう〉さん」の名で広く知られ、開発の祖神として尊崇をあつめています。
この宮内には、近年まで八朔〈はっさく〉(陰暦八月一日に行う田の実の祭で、陽暦になって九月一日に行なわれた。)に、稲わらで太い百メートルもの綱をを作り、村中の青少年が総出で引き合う行事がありました。
綱が切れるまで引き合うのですが、体験した古老の話では、なかなかに切れないので、最後は鎌〈かま〉で切って行事を終えたそうです。
綱が切れたことは、瀬戸の開拓で岩に綱をかけて大勢が引き、これが取り除かれて工事が完成したことを意味するそうです。綱が切れると翌日はそれを祝って村休みがあり、村中が一日の骨休みをしたそうです。
この綱引きの行事は、宮内以外の但馬の村々にもあって、開拓事業が広い地域の人々の協力で行なわれたと見ることも出来ます。
宮内にはこのほか、開拓工事の中休みに行なわれたという「幟〈のぼり〉まわし」の行事が五月の節旬に行なわれております。
歌詞には瀬戸の切り開きが歌いこまれ、のぼりを手にした少年会の子供らが、円陣をつくってまわす行事です。
出石神社に集り、社前で回したあと、その年に男の子が生れた家々をまわり、家ごとに祝いの餅がまかれます。
出石神社の境内や、その周辺からは数多くの弥生式土器や石器が出土し、つづく古墳時代の土器も発掘されて、古い日槍の昔を物語るようです。

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