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更新日:2012年6月20日

小盗山と有子山(出石町)

今から四百年ほど昔の出石は山名氏の城下で、出石神社のある宮内〈みやうち〉辺にあったと伝えられます。
宮内には、曲水の宴が行われたという入佐〈いるさ〉川や、宗鏡〈すきょう〉寺・願成寺など現在の市街地にある地名や寺院名がそのまま残っております。


この山名氏は、室町時代の初め頃山名時義が因幡〈いなば〉・伯耆〈ほうき〉のほか但馬の守護を兼ね、出石の中心地宮内の此隅〈このすみ〉山に城を築いて本拠としました。
子の時凞〈ときひろ〉の頃は全国六十余州のうち、十一か国を山名一族で占め、世に「六分一殿」といわれ、将軍義満にそむいて明徳の乱を起したほどでした。
その子の持豊(宗全)は、応仁の乱で知られる西軍の大将です。
この全盛を誇った山名氏も、乱後は全く勢力を失い次第に衰弱します。室町末の祐豊〈すけとよ〉の頃にはやっと但馬一国が守れる程度でした。
そのうえ、祐豊の長男棟豊〈むねとよ〉は十八才の若さで死に、次男の義親〈よしちか〉も二十一才で没しました。祐豊が隠居して氏政(慶五郎)が城をつぎますが、時がたっても世つぎの子供が生れません。
そこで、ある時易者を城中によんで占わせますと「此隅城は位置が悪いので不運がつづきます。半里ほど南のあの山頂に城を移せば子供も生れます。」と申しました。

そこで、天正二年(千五百七十四年)に新しく城を築いて移り住みますと、間もなく待望の子供が生れたといいます。
その後、不運のつづいた「此隅〈このすみ〉山」を「小盗〈こぬすみ〉山」と呼び、新しく移城して子供の生れた山を「有子〈こあり〉山」というようになったと伝えます。有子山の城は「有子城」のほか「高城〈たかしろ〉」ともよばれ、今では山頂が広いことから「千畳敷〈せんじょうじき〉」などともいわれて、当時の石垣を留めております。
新しく移った出石の城下には、山名氏の四天王と称された田結庄氏や八木氏から名づけられたという「田結庄〈たいのしょう〉町」や「八木〈やぎ〉町」があり、家臣の伊木隠斎が住んでいたという「伊木〈いぎ〉町」もあります。

つぎにこの伝説と、その後の有子城の変遷を、忠実と伝承から見ましょう。

天正二年の有子に城が移る五年前、永禄十二年(千五百六十九年)には、織田信長による全国統一が進み、その命を受けた部下の秀吉が但馬や播磨の諸城を攻め落しております。
このとき、山名の此隅城も落され、山名勢力は壊滅的な打撃を受けたことが記録にあります。
残存した勢力を集めた山名氏は、標高わずか三十余メートルの此隅城を捨て、南北に天険の要害をなし、標高三百余メートルの有子山頂を選んで最後の守りを固めたとも考えられます。
東西のゆるやかな稜線〈りょうせん〉には堀切〈ほりきり〉とよぶ空ぼりも作り、山の中腹には家臣の屋敷を配置しました。
この新城も、移って間もない天正八年(千五百八十年)再度来攻した秀吉の但馬征伐に攻略され、此隅以来八代、約二百年もつづいた山名氏は滅亡します。

有子城を攻めたのは、秀吉の猛将藤堂高虎で、八鹿より浅間坂を越え、弘原谷福成寺に本陣をとり西方より攻めました。
山名勢の必死の防戦と、天険を利した籠城でなかなかに落せません。そこで、城下に残った子女を人質に取り、ぎゃく殺しました。これを見て憤激した山名勢は城を出て、なだれを打って山の西裾〈すそ〉に攻め降り、奮戦のすえ全滅したと伝えられます。
現在福成寺は町内に移りましたが、この時用いた秀吉の制札〈せいさつ〉を伝え、戦闘のあった山裾からは武具が多く出土するといいます。

山名氏滅亡のあと城主となった小出氏は、間もなく山頂の城を有子山麓〈こありさんろく〉に移し、九代約百年間つづきましたが、最後には城主が夭折〈ようせつ〉して跡継の子供がなく断絶いたします。
山名氏には子供が出来て「有子」であったこの山も、小出氏にはまた「小盗」だったようです。

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