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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』但馬編 > 杉ヶ沢の大蛇退治(関宮町轟)

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更新日:2013年1月14日

杉ヶ沢の大蛇退治(関宮町轟)

今を去る、約千年も昔のことです。関宮町轟〈とどろき〉に、九州、豊前の国(福岡県)から落ち延びて来た一人の武士があった。名は、当前長門守〈ながとのかみ〉秀貞。名門の出で、智恵もあり、武芸にもすぐれていたが、故あって百姓となり、ここ轟村に住みついたのです。
その頃の轟村は、昼なお暗い杉木立の間に、二~三の人家があるだけで、氏神もなかったので、秀貞は「日頃から信仰している三宝荒神は、五穀(米・麦・粟〈あわ〉・黍〈きび〉・豆)の神であり百姓の神である。」とこれを氏神として祀〈まつ〉り、田畑を開いたので、おいおい戸数も増し、暮しも楽になりました。

ところが、秀貞の孫、甚左衛門の代になった時のことです。村の奥の杉ヶ沢は、杉や桧〈ひのき〉の大樹が繁〈しげ〉り、その大木の野に二つの大池があり、その池に住む大蛇が暴れはじめました。村人は、大蛇を見ただけで倒れ、高い熱を出して病み、時には死ぬる者も出ました。作物も、大蛇の通った跡は枯れてしまうのです。村人の中には、
「住みなれた土地ではあるが、これでは、もう、ここには住めない。」
と、荷物をまとめて、村を出て行く者も出る有様です。
「このままでは、村は滅〈ほろ〉びてしまう。何とかして、大蛇を退治しょう。」
と、考えた甚左衛門は、氏神、三宝荒神に百日のおこもりすることにして
「南無〈なむ〉、三宝荒神のご神徳をもって、杉ヶ沢の大蛇を討たせ給〈たま〉え。村を荒廃〈こうはい〉(あれ・すたること)より救い給え。」
と、ただ一心に祈り続けた。そして、十日たち、二十日たち、遂に満願の日が来た。甚左衛門が「今夜こそ満願の夜」と、一そう真心こめて祈りに祈っていると、どこからともなく現われた白髪の翁〈おきな〉が
「やよ、甚左衛門。お前の村を思う心に神も感じ給い、明日、神威をもって大蛇を追い出されるであろう。お前は、この矢をもって射止めよ。」
神託〈しんたく〉(神のお告げ)を受けた甚左衛門が、あまりのありがたさに「ハハッ」と平伏したとたんに、眼がさめた。今のは夢であった。が、不思議にも、そこには「かりまたの大矢」があった。

明くれば寛仁四年(一〇二〇年)十二月四日。この日、一天にわかにかき曇り、雷鳴〈らいめい〉とともに大粒の雨が降り出し、やがて、地響〈じひびき〉・稲光〈いなびか〉り、天の一角が破れて滝のような大雨となり、山は砕〈くだ〉け、地も裂〈さ〉けんばかりの大荒れに、人びとは、生きた心地もなく、ただ神仏の加護を祈るばかりであった。だが、甚左衛門は、家に伝わる強弓に神より授った矢をつがえ「今日こそ大蛇を射止めてくれん。」と、勇み立って杉ヶ沢へと登って行きました。

杉ヶ沢へ登った甚左衛門は、足場を定め、大蛇の現われるのを今やおそしと待ち構えると、百雷が一時に落ちたかと思うばかりの音に、杉ヶ沢の杉林が一瞬〈しゅん〉に火の海となり、池の水が沸き立ったかと思うと、ぐれん(紅蓮)の炎を吐きながら、大蛇が現われて、甚左衛門を「ただ一飲み」とばかりに襲〈おそ〉いかかりました。
甚左衛門は、「南無、三宝荒神!!」と、心の中で祈り、夢中で矢を放ちました。矢は口を開けた大蛇ののど(喉)元深く刺り、さしもの大蛇も七転八倒して、その場に息絶えてしまいました。すると不思議に空は晴れ、先刻〈せんこく〉(さきほど)までの山荒れも夢のように治〈おさ〉まり、もとの静けさにかえっていました。
甚左衛門をはじめ村人たちは、三宝荒神のご神徳に感じ、大蛇の命を絶った「かりまたの大矢」をご神体として、末長くあがめ祭りました。

(注)今、轟村の氏神は熊野神社。熊野大権現を祀るが、この宮は、当前氏が滅んだ後に片岡氏が栄え、その守護神「熊野大権現」を氏神としたものです。

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