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更新日:2012年6月20日

弥籐次荒神(出石町)

出石川の中流、床尾のふもとを下った流れが北に向きを変えるあたり、村のはずれに小さな祠堂〈ほこら〉があります。荒神様を祭り、「弥籐次荒神」ともよばれます。

江戸時代の末頃のこと、出石藩の中間〈ちゅうげん〉か小人〈こびと〉程度の軽卒で「弥籐次」という人気者がおりました。「一川弥籐次」ともいわれますが、一川が姓なのか、号なのかもわかりません。
身体は並はずれて大きく、十人力とか二十人力ともいわれる怪力の持主で、そのうえ人が良いので皆んなに親しまれて人気がありました。

その怪力ぶりは、小指ほどもある長い鉄火箸〈ばし〉を二本両手に持って、わら縄をなうようにない結んで見せ、よく自慢していたといわれます。

雑役〈ざつえき〉で出石藩に仕える身分ですが、殿様が江戸に出仕〈しゅっし〉する参勤交替の大名行列の往復には、その強力が買われて、行列の先頭をゆき、先払いをしたといわれます。おそらく、弥籐次にとっては一番はなやかで得意なときだったことでしょう。
当時江戸までの街道すじには、乱暴で名を売る雲助や、迷惑をかえりみない、ならず者が沢山おりました。有名な大井川や、箱根の雲助たちもいます。行列の先払い役で得意な弥籐次は、こんな相手に喧嘩を売り、手玉にとったり、はねとばして盛んに自慢の力を見せつけました。

そのため、東海道でも「出石藩の行列」と聞くと、道をゆずって下手な妨害やいやがらせはしなかったといわれます。

こんな弥籐次ですから、一方で人気があれば、他方には敵もあったのか?またあまりに図に乗り過ぎて大きな過失があったのか?罪状はよく分りませんが、「打首」という重罪が申し渡されます。
当時出石藩の刑場は、町はずれの松畷〈まつなわて〉の下で、通称「赤堀〈あかぼり〉」といわれた旧出石川のほとりにありました。近くには今でも当時の松が一本残り、その下には高石塔〈たかぜきとう〉が建ち、処刑者の供養塔として知られております。

その刑場で、型のごとく後手にしばられ、斬首のため首を差しのばした弥籐次に、検分役が最後の望みの有無をたずねました。すると「何も望むものはありません。ただこの世の名残りに、出石川の水を一口飲ませていただきたい。」と申しますので、その程度のことなら不都合もなかろう、と縄つきのまま数歩先の川辺にともないました。弥籐次ははいつくばって水を一口飲み終る間もなく、突然出石川に飛び込み、そのまま水中に深く没しました。
当時の出石川は河舟が盛んに往来して年貢や物資を運ぶほど深く、城主が城崎の湯治に行く時も中型の屋形舟をなんそうか連ねた記録があるほどです。ことに刑場のあった赤堀のあたりは底が見えぬほどの深さでした。

全く一瞬の出来ごとにあわてふためいた役人達が、八方手をつくして川沿いを探しましたが見つかりません。
縄目のまま深くもぐった弥籐次は人並みはずれた体力の持主でした。

血まなこで探し求める役人の群に見つからないためには、頭を水面に出して満足に呼吸も出来ません。そのうえ川の流れにさからう上流えの逃亡です。死力をつくして不自由な潜水をつづけながら、二千メートル近くもある百合〈ゆり〉の水門まで逃げきり、やっとその下に潜む〈ひそむ〉ことができました。

ところが運悪く、たまたま近くにやって来た老婆に見つかって密告されます。早速に藩から捕方の人数がくり出され、水門にひそむ弥籐次を土橋の上から一度に槍で刺して殺害したといいます。

その後この村には災害がつづきました。
誰れいうとなく「弥籐次のたたり」だと…噂が次第に広まりました。
そこで村の有志が相談して小さな祠を建てて弥籐次の霊を慰めるために供養をつづけました。
この小さな祠堂を、今でも俗に「弥籐次荒神」と呼んでおります。

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