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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』阪神編 > 黄金塚〈こがねづか〉の伝承〈でんしょう〉(芦屋市打出春日町)

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更新日:2012年12月17日

黄金塚〈こがねづか〉の伝承〈でんしょう〉(芦屋市打出春日町)

むかしの西国街道〈かいどう〉は、京都から西国地方にいく大へんたいせつな道でした。せまい道でありましたが「さんきんこうたい」の時は西国の大名たちは「下〈した〉にー、下〈した〉にー。」と、いばってこの道を通って、京都へのぼり江戸へいったものです。

打出村(阪神電車・打出駅)の北に「打出の一本松」また「西国大名腰〈こし〉かけ松」ともいわれた大きな古い松がありました。大名たちの行列〈ぎょうれつ〉はここで、ひと休みするのが常でした。この大松は、昭和九年の大暴風雨〈ぼうふうう〉でかたむいてしまったので、のち切りとられて今はありません。黄金塚〈こがねづか〉は江戸時代の絵図〈えず〉によると、西国街道の北にそって円形の道をつくり、その中央に円い古墳〈こふん〉があり、その上に数十本の大きな松が天にそびえています。もとはよほど大きな小山のような、お墓で周囲〈まわり〉に「ホリ」をめぐらしていました。

西国街道を通る人たちは、みなこのお墓におまいりして、となりの打出天神社に詣〈まい〉り、阿保〈あほ〉親王のお墓におまいりしたものでした。
この大きな円〈まる〉い墳〈はか〉は「金津丘〈かなつやま〉・黄金塚〈こがねつか〉・金塚〈かなつか〉」ともいわれ、たいへん名高い、芦屋第一の古い大きなものです。伝説によるとこの地方を治〈おさ〉めていた、阿保親王がなくなるまえに「このやまに黄金〈こがね〉を埋〈う〉めておくから、もしこの里の人たちがうえ死するような、ききんにおそわれたときは、これを掘〈ほ〉り出してしのぐように…。」とのおおせでありました。
この里のわらべうたに、
 「朝日さす 入日かがやくこの下に
 こがね千枚 かわら万枚」

現在は墓所もしだいに、けずりとられ、大きな松も多くは風のためにたおされ、墓地は一面に小笹〈ささ〉が生えて荒地〈こうち〉となり、まわりには、高い住宅がつぎつぎにたって、ながめがわるくなりましたが、数百年もへたと思われる黒松が、昔を物語っております。

文化〈ぶんか〉年間の「あしかり草紙〈そうし〉」という本には、芦屋の藤栄〈とうえい〉が打出の金津山から、黄金〈こがね〉を掘りださうとしたそうですが、天罰〈てんばつ〉で手が動かなくなったそうです。おとしよりのお話しですと、いままでこの黄金をほりとろうとしたものは、たびたびありましたが、みな天罰により失敗〈しっぱい〉し、今でも黄金が、うずまっているとのことです。

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